「……Hello?」
着信音に反応して腕は伸びるが体はベッドから動かす事が出来ず、大樹は枕に半分顔を
埋めたままで携帯電話を耳にあてた。
『…大樹?』
「・・・・・・・・」
『大樹?』
聞こえて来た朱音の声に、大樹はまた夢を見ているのかと一瞬思った。
何度も見た夢と似ているこのシチュエーション。
寝起きの電話に朱音の声はどうしてもあの日を思い出し胸がざわつく。これも一種のトラウマなのかと
大樹は携帯を持つ手を代え、うつ伏せの体を上向きにするともう一方の手を額に乗せた。
「朱音…?」
『うん…寝てたよね?』
「ん…どうした?先に言っておくけど別れ話なら却下」
掠れ声を絞り出す大樹に朱音はクスクスと笑った。
『違うって。ちょっと大樹に用事があって』
朱音の明るい声に大樹はフッと笑う。
「今何時?」
『え、こっちは夜の11時』
6時か。
大樹は一瞬のうちに時差を計算すると上半身を起こし髪をかき上げる。
『ごめん、まだ寝てたよね』
「まあね。どうせもう起きるところだったし、朱音の声で起こされるのも悪くないかな。キス出来ないのは残念だけど」
耳元に朱音の笑い声が聞こえてくる。こんな近くに聞こえるのに、実際に朱音がここにいないのが不思議だ。
アメリカに戻り四日。予想通りハードなスケジュールの毎日を過ごしていた。さすがに三つの掛持ちは想像以上の
ハードワーク。唯一の救いは最初の約束どおり年内でタワーズホテルのCEOを退任する事。基樹はせめてCOO在任中の
継続を望んだが当然大樹は俺を殺す気かと拒否。後任のCEOはタワーズホテルにおいては大樹の右腕、何の心配もいらない。
それこそ死んでしまえば二年後の基樹の夢物語も本当に夢で終わると言われれば基樹も引くしかない。
「それで用事って?」
『あのね、後でパソのメール見てね』
「今電話してるのにわざわざメールで?口で言えば?」
『いいから見て、口じゃ説明できない』
「じゃあ後で。で、それを見ると何かいい事でもあるのかな?」
『んー、それは見てのお楽しみ』
ふふふっと楽しそうな朱音の声だけでもハードワークをこなす大樹にとっては充分な活力剤になる。
正直なところそろそろ朱音の肌が恋しいが、触れる事が出来ないなら声だけでもそばに感じていたい。
『あ、ごめん、大樹これから仕事でしょ、もう切るね。メール忘れずに見てよ』
――って、おい、本当に用件だけで切る気か?
「なんだよ、それだけで終わり?」
『だって時間大丈夫なの?』
「朱音と違っていつも余裕をもって起きてるの忘れた?さらに今朝は早く起こされたから大丈夫だよ」
『どうせ私はねぼすけです。だって大樹みたいに早起きまでしてバシッとキチっと決める必要ないし』
「あのな〜、別にバシッとキチっと決めるために早起きしてるわけじゃない」
『え、そうなの?でも大樹のスーツ姿は好きだよ。出来る男って感じだし』
「実際出来るんだよ」
『ハハっ、自分で言・う・な。でもロン毛は頂けないなぁ。ま、ホスト大樹もだいぶ見慣れたけど。
ね、ね、今度さ、胸が大きく開いた黒のシャツに
白いスーツ着て赤いバラなんか持っちゃって決めポーズで写真撮らない?ううん、大樹は紫に黒のスーツの方が似合うかな。
でね、んー、どこに飾ろうかなぁ…あ、副社長室!』
――誰が撮るかそんな写真。だいたい今時こんなホストいないって。
内心で呟き一人勝手に盛り上がる朱音の話しを耳にしながら、大樹はマントルピースに目をやった。
焚き口部分の大きな花瓶にはエイミーが絶えず花を生けている。
そして飾り棚に置かれたこの家で唯一のフォトフレームには、基樹が送って来たウェディングドレス姿の朱音の写真。
最初に見た時はあんなに胸が痛んだ写真でも、今は眺めているだけで自然と目が細まる。
飾った当初はエイミーが不思議そうな顔をしていたが、背景がメインで人物は後ろ姿のアングルにただの飾り写真だと
それ以上の疑問は持たなかったようだ。
『でもなぁ、人に見せるのは勿体ないから携帯の待受けにしよっと。私だけのお宝大樹写真、な〜んて』
だからそんな写真絶対に撮る事ないから。と、大樹はもう一度胸の中で呟いてふふっと笑った。
「今どこにいる?」
『ベッドの中。明日早いから。翔太君と動物園デートなの』
「羨ましいチビだな。俺は朱音を抱きたくても出来ないのに」
『私は大樹に会いたい』
「会うだけ?」
『言わなくても顔見れば襲うくせに』
「なんだそれ。まるで俺が節操なしみたいに聞こえる」
『事実じゃん』
「仕方ないだろ、俺の大切な朱音はどんなに愛しても愛し足りないんだから」
『あ、あのねぇ、ほんとによくそんな恥ずかしい事さらっと言えちゃうよね。こっちが恥ずかしいよ』
「なんならもっと言おうか?どこかの鈍感な誰かさんは過ぎるくらい言葉にしないと平気で聞き逃すからな」
『鈍感って誰よ!』
「いや違った。何度も言ってるのに大事な言葉は耳に残らない」
『だ、黙れ』
朱音がどんな顔をしているかいとも簡単に想像できて、つい声を出して笑ってしまう。
『だ〜か〜ら〜、笑うな!』
やはり声だけじゃ足りない。朱音だけはすぐそばに、すぐに触れられる場所にいて欲しい。
「朱音」
『何よ!』
想像の中での怒った朱音の顔が大樹の気持ちをくすぐる。そしてよからぬ妄想、そんな朱音を押し倒してなだめる。
甘く甘く、何処までも甘く…
「ヤバ…」
寝起きの体に朱音の声、脳裏に浮かぶ表情に触発され妄想で欲情してしまう下半身。健全な男としての
自然現象だが、幸か不幸か朱音はここにいない。
『大樹?』
「ん?ああ、明日早いんだろ、もう寝たら?」
これ以上朱音の声はこの体には毒だ。名残惜しいがここは心を鬼にして強制終了しかない。
『そうだね、大樹も仕事だもんね。おやすみなさい、じゃないか、行ってらっしゃい』
「おやすみ朱音」
大樹は携帯電話を折り畳むと、本当に節操なしだなと自嘲しながらベッドに勢いよく倒れた。
両目を隠すように腕を乗せると悶々とする体を持て余す。
どうにかこの体を落ち着かせようとするものの、努力すればするほど瞼に浮かぶ朱音の裸体に気分は益々高揚するばかり。
さりとて自分で慰めるのも一時的には有効な行為だが少々情けないような気がする。
「くそっ」
自分に悪態をついて大樹は勢いよく体を起こし、はぁ〜と長い溜息。時計に目をやり時間を確認した。
「まだ時間はあるな」
とにかくこの火照った体をなんとかしなければ。
大樹はベッドから立ち上がるとマントルピースの写真に向かって苦笑いした。
―― ◆ ―― ◆ ――
移動中の車の窓から外の景色を眺めながら大樹は溜息を吐いた。
いったい今日何度目だろう?そう思いながら溜息を吐く自分にまた溜息が出る。
「はぁ…」
「今朝は珍しく出社が遅いと思えば今度は溜息ばかり。どこか具合でも悪いのですか?」
心配そうに尋ねるのは助手席のランディ。
大樹はチラリと視線を向けるとすぐまた車窓の外に戻し、またも小さく息を吐く。
「いたって健康、のはず」
そう、健康な男だからこそ困る事態。
「では何かトラブルでも?」
大樹は車窓を眺めたまま今度は大きく息を吸い込んだ。
「煩悩を払えず自己嫌悪…なんて言えないね」
ぼそっと呟いた日本語をランディが繰り返す。
「ボンノウ?…Worldly desires?」
そうだ、ランディは日本語がわかるんだ。と言ってから気付くがもう遅い。
そしてランディもランディ、なにもわざわざ英訳しなくていいのに、と思っているとベンがハハハと
笑い出した。
「溜息の原因は煩悩か!なるほど、それで早朝からプールにいたわけか。人間は欲望の塊、いいことだよ。
これでダイキも少しは女に目を向けるんじゃないか?
美女とデートすればその煩悩はすぐに消えますって」
バックミラー越しにニヤリ笑うベンに大樹はふんと鼻を鳴らすと、今度はランディが口を開いてくる。
「たまにはいいこと言うじゃないかベン。僕もこの意見には賛成です。やはり会うべきです。
ミスター・コーマンの申し出、デートもせずに断るのはどうかと思います」
ランディが肩越しに後ろを振り向けば、うんざり顔の大樹がまた溜息を洩らしている。
こんないい話しをいとも簡単に断る大樹がランディにはわからない。愛がどうのこうの言っていたが、端から拒否している
限り誰とも愛など芽生えやしないのに。
今のボスに足りないものは私生活のパートナーだけ。それがコーマン社の一人娘となれば何も言う事はない。
今自分がすべきことはボスをその気にさせることだとランディは考える。
「なんだい?ダイキにいい話しでもあるのかい?それを断った?!なあランディ、それは美人なのか?だとしたら
もったいないことをしたなぁ」
「実際に会った事はないが噂だと美人らしい」
「ほんとに美人なのか?噂なんてあてにならないぞ」
「いいんだよベン、美人だろうがなんだろうが今のボスには女性と楽しい時間を過ごす必要があるんじゃないか?
仕事ばかりじゃ息も詰まる」
「なるほどそうだな。女っ気がゼロなのはよくない。ダイキ、食事くらい一緒にしてもいいんじゃないですかね」
「そうですよボス。なんなら僕がセッティングしましょうか?女性の喜びそうな場所をリサーチしますが」
「その前に買い物じゃないか?女は装飾品に弱い」
「んー、となると細かいスケジュールをたてるか」
「食事のあとはフリーにしておくんだぞ」
――勝手に言ってろ。わざわざおまえがセッティングしなくてもどうすれば女が喜ぶかくらい知ってる。
恋愛談議に花を咲かす二人はあえて無視。移動中の時間も無駄にはしたくないと大樹はおもむろにノートパソコンを手に
すると膝の上で開いた。
そうだメール。
煩悩に気を取られすっかり忘れていた。さて、どんなお楽しみのメールなのか少しばかり期待しながら、受信トレイの中から
朱音の名を探し出し真っ先に開くとそれは企画書。
「なんだ仕事か。俺じゃなくて東吾に見せ……ん?」
真剣な顔でパソコンを見る大樹に気付いたランディは、ベンとの恋愛談議を中断すると困ったものだと小さく首を左右に振った。
まるでその気なし。かりに独身主義だとしてもそれが女を避ける理由にはならない。何もランディは恋愛を推奨するわけ
ではないが、男として少しの興味も示さないのが不思議だ。
「諦めた方がよさそうだよランディ。ありゃ仕事が恋人だ。あの様子じゃ煩悩もどこかに消えたな」
ベンが呆れた様子でバックミラーに目をやれば、大樹は顎を指で擦りながら何か考えているようでパソコンの画面を
凝視している。
「ま、ダイキはおまえの思い通りにはならないよ」
ちらりベンを睨んでランディがシートに座り直した時だった。後部座席からくくくっと笑いを堪える声に振り返った途端、
堪え切れなくなった大樹がハハハと声を上げて笑いだした。
「…ボス?」
ランディが呼びかけるも大樹はパソコンに釘付け、笑いが止まらない。
「何か面白い記事でも載ってましたか?」
「いいや、日本からの企画書。なかなか面白い。違うな面白い通り越してあまりにもバカげていて笑える」
やっと顔を上げて笑いながら話す大樹にランディは僅かに眉を寄せた。
バカげた企画書をボスに見せるなど日本のスタッフは一体何をしているのだと。無駄な情報は時間のロス、それを選り分けるの
のが側近の仕事なのに、日本にはそんな部下がいないのかとボスが気の毒だ。
前に向き直るランディを一瞥して大樹はふふんと鼻で笑った。
恐らく大樹が言った『バカげている企画』をあげてくる行為が信じられないのだろう。だが大樹にはこの程度の企画は許容範囲。
ま、リニューアル自体に影響がないのでかえって面白いかもしれない。
それにしても…
この低予算で広告費を削ってその分の予算請求とはたいしたもんだ。
相変わらず東吾を飛ばして直で勝負は困ったもんだが、今回の場合それも頷ける。
朱音の勝ち誇った顔が浮かび大樹はついついニヤけてしまう。いろんな意味で朱音は刺激的だ。
――っと、ヤバ…
忘れかけた煩悩がまた大樹を悩ませる。
悶々とするのはよくはないが、そんな時に他の女を勧められるのは気分の良いものではない。まずは暫くランディには黙って
いてもらうしかない。
「ランディ、今から30分ほど時間を空けてくれ。寄りたい所がある」
ランディの返事も聞かず大樹がベンに告げた行先はこの辺りでは有名な宝飾店の名前。
え?と振り返るランディの表情はどうしてそんな場所へ?と聞きたげ。
「なんだその顔は。おまえだろう、女性を喜ばせろと言ったのは」
パッと表情を明るくしたランディがニコニコしながら「それでは何かプレゼントを…」と言うのを大樹は遮って続けた。
「エンゲージリング、なんてどうだ。な?ランディ」
ニヤっと笑ってみせるとランディは、はぁ?と眉を寄せた。
「そ、それはいくらなんでも気が早いのでは?!」
「そうか?充分に考えた上での決断でも?」
「いえ、その、ボスの決断なら間違いはないでしょうが、しかし、一度会ってから決めても遅くはないと…。
確かに僕はおまけは魅力的だと言いましたが、会ってもいない女性にいきなりエンゲージリングなどかえって失礼では…」
結婚を勧めるような事を言っておいて、いざこうなると待ったをかけるランディのうろたえぶりが可笑しい。
「その点は大丈夫、俺は何度も会ってる。今朝も電話で話をしたばかり。彼女は俺を飽きさせない唯一の女性だからね」
「あ、あなたは一体いつの間に…!!まったく愛がどうのこうのと言っておきながら抜け目ない」
今度は驚きを隠せない様子で大樹を見るランディに吹き出してしまいそう。
「誤解するな、愛してるから結婚するんだ。当然、反対はしないよな、ランディ。大切な彼女だから誰一人反対されたくはない」
真剣な大樹にランディは小さく息をひとつ吐いてニコリと笑った。
彼にしてみれば文句のつけようがない。結婚したい相手はおまけつきの申し分ない女性。誰が反対などするものか。
「反対する理由がどこに?愛があるならなお結構じゃないですか。おめでとうございます」
「じゃあおまえは賛成なんだな、後からうるさく言うなよ」
「ええ、もちろんです。コーマン社の時期社長候補のあなたに誰がうるさく言えますか」
ご機嫌な様子で前を向き直るランディの横顔を見て、まだ甘いなと大樹は思う。
誰がおまけ付きの結婚などするか、二度も言わせるな。と内心呟きながらくくくっと笑いが漏れる。
「誰が次期社長候補だって?」
大樹の問いにランディは笑顔を向けて答える。
「ボス、あなたでしょう」
「何故」
「娘婿に譲る、違いますか?」
何故そんな質問をするのか不思議に思いながら答えるランディに、大樹はニヤリ方口を上げた。
「誰がミスター・コーマンの娘婿になると言った。言っただろ、愛のない結婚などしないって」
は?とあんぐり口を開けるランディ。
「ボス!からかったんですか?!」
「まさか、俺は嘘は言ってない。結婚はするよ、日本にいる恋人とね。おまえは賛成って言ったよな、
だからこれ以上コーマンの事は言うな」
「・・・・・!!」
突然のボスの告白にランディは言葉が出てこない。ランディにしてみれば俄かに信じられないだろう。それこそいつの間に?!だ。
彼の記憶の限り大樹が日本に帰国したのは今回のみ、たった数週間で恋に落ちた?
まさか。ランディからしたら大樹はそんな情熱家とは思えない。ではもっと好条件の縁談?
一人考えをめぐらすランディを現実に呼び戻したのはベンの大きな笑い声。
「ハハハッ!なるほど、ランディ、おまえも鈍いな。ダイキにはずっと想う人がいたんだよ。だから全く女っ気なしでいられたわけだ。
そうか煩悩に悩まされるのも仕方ない、久々の再会で四日と離れてられないんだよ!ね、ダイキ」
大樹はバックミラー越しにベンに笑いかけると、ランディはそんな二人を目を丸くして交互に見ていた。
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