朱音は一瞬目を大きく開くと、はぁぁぁぁぁ〜〜〜〜と、長い長い溜息を吐いて俯く。酸欠で苦しくなって思い切り息
を吸い込むとハッとして顔をあげた。
よくよく考えてみればあのメモリは大樹の部屋に忘れてきたのだ。
大樹の部屋ですでにやることは終えていたので、
今の今まであのメモリをなくしていた事に気付かない自分はマヌケだ。
それにしても大樹の部屋で忘れたそのメモリを東吾が持って
いるということは、東吾は私が大樹と会って彼の部屋に行ったこと、いや、もしかしたら恋人ごっこのことも知っているの
かもしれない。まさかグル?
「もしかして東吾さん知ってた?」
「え、何を?」
本当にわからないのか、シラを切っているのか、小首を傾げる東吾をキッと睨むと大きく息を吸い込んだ。
「恋人ごっこですよ、こ・い・び・と・ごっ・こ!」
顔を真っ赤にして睨む朱音をよそに、東吾は腕を組んで何故か感心したような目で朱音を見ている。
「恋人ごっこか、なかなかいいネーミングじゃないか」
驚きもせず、それって何?とも聞きもしない東吾に、朱音は確信した。
「やっぱり知ってたんだ東吾さん…」
自分に向けられた呆れた眼差しに、東吾はクスッと笑うと知ってたよ、と答える。
「だって大樹からレストランでのことを聞いて、その恋人ごっこを言い出したのは俺」
何が楽しいのか、やけに楽しそうに自分を指差す東吾に朱音はガクッと肩を落とす。
「なんてことを…。だいたい東吾さんは仲良しなんでしょ?だったら彼にダイエット美人に通い妻、あ、これは違ったんだ、
えっと、ダイエット美人にダイエット美人と、とにかくダイエット美人がいっぱいいるの知ってるんでしょ?私なんかじゃ
なくそっちを勧めてよ…!」
ダイエット美人がいっぱいと言われても、東吾にはさっぱり意味はわからない。
「ねえ朱音ちゃん、ダイエット美人て何?つーか誰?」
「ダイエット美人はダイエット美人で、そのままの意味でダイエットしてる美人です!
誰だかは私にもわからないから本人に聞いて!」
何を怒っているのか、唇を尖らせてダイエット美人を連呼する朱音を見ていた東吾は、わけもなくそれが可笑しく思える。
大樹もこうして意味のわからないことを言われているのかと思うと、苦戦のわけが何となくわかったような気がしてますます
可笑しい。
ダイエット美人が誰なのか気にはなるがとりあえずそれはさておき、まずは説得。
「どうしても来たくない?」
「あいつがいるからイヤ」
頑なに嫌がる朱音に東吾は額を抱える。
大樹、朱音ちゃんに何したんだよ!
文句を言いたいが本人はここにいない。大樹ですら苦戦する朱音相手に本当に自分に説得など出来るのだろうか?
ちょっとだけ心が折れかけたが、原因が大樹とわかっただけでも一歩前進。ならばその原因を取り除けばいいのだが、
まさか大樹を取り除くわけにはいかない。
「大樹に会いたくないってことだよね?だったら大丈夫だよ、あいつのオフィスは15階の天井人、俺達企画室は地下1階の
地底人、あいつが企画室に来ることはまずほとんどないし、社内で出くわすこともほとんどない。この俺だってわざわざ会いに
行かなきゃ偶然会うなんて今まで滅多にない。ただし、社員用の駐車場が地下1階で俺達の部屋の前を通らきゃなら
ないから、ここだけ大樹に遭遇する可能性はあるかな。ま、確率は低いと思うけど」
大樹を排除できない以上、東吾はこう言うしかないと思った。実際に同じ会社に居ながら、用がなければ何日も大樹に会わない
ことなどざらだ。
「でも絶対に会わないわけじゃない」
「そうだけどさ、じゃあどうするの?明日から無職?」
「うっ…やっぱりそれは困るかも……」
朱音は尻つぼみに言ってから俯く。
そりゃそうだ、困るのをわかってて言ってんだもんな。東吾は心の中でそう呟くと朱音の顔を覗き込んだ。
「行くだけ行ってみない?」
「イヤ。だってこれもあいつの差し金でしょ?何でもかんでも言いなりになんかなりたくない」
朱音は視線だけ上に向けると、東吾は、え?と驚くように目を開いている。
「それは違うよ朱音ちゃん、大樹の差し金なんかじゃない。俺が朱音ちゃんを企画室に欲しいのは本当だからそれは信じて。
でも、大樹は朱音ちゃんはヴィラ希望だから企画室に入れるのは無理だって言ったんだ。でも俺がどうしても欲しいからって、
それで大樹はもし朱音ちゃんを説得出来たら、俺が直属の上司になるのが条件でオッケーしたんだよ」
「…本当に?」
「ああ、ほんと。だって大樹は朱音ちゃんが企画室に来るのを歓迎してない」
「えっ?」
小首を傾げる朱音に、東吾は小さく舌打ちをした。
「歓迎してない?って私を?それって来て欲しくないって事?」
完全に下を向いてしまった朱音に、東吾はまずいことを言ってしまったと慌てた。
「あ、いや、違う…!」
そうじゃない、と言おうとしたところで何を思ったのか急に朱音が立ち上がった。
クルッと体を回転させ早足で応接セットから遠ざかると、さっきまで自分がいたデスクに置いてあった自分のバッグを
持って戻ってきて、勢いよくソファに腰掛けるとバッグの中に手を突っ込みなにかを探し始めた。
いったい何が始まったのか。大樹が歓迎しないと聞いて落ち込んだと思っていた朱音の突然の行動を、東吾は唖然と
眺めていると朱音がバッグの中から何か取り出した。
「東吾さん、確認しますけど私を歓迎してないのって、TOJホテルグループ第二営業部部長兼営業企画室室長の東条大樹さん、
ですよね?」
「???」
――え?大樹の名刺?
キョトンとする東吾をよそに、朱音は
小さな紙切れを両手で持ってそれを読み上げたあと、チラッと視線だけ東吾に向けた。
「もう一度聞きますよ、私に来て欲しくないのって、TOJホテルグループ第二営業部部ちょ……」
「そ、そうだよ、その東条大樹」
二度も長ったらしい大樹の肩書を聞くまでもなく、東吾は朱音のセリフを遮った。
いったい何だよ?東吾が首をひねっていると、クスッと笑う声がしたのと同時ににっこりと笑う朱音の顔が目に飛び込む。
「東吾さん、企画室でしたっけ?私喜んで行きますよ。これから行くんですよね、だったらさっさと行きましょうよ」
喜んで行くって…。はて?いったいどこがどうなっていきなりオッケー?
東吾がなりゆきを理解できないでいると、朱音に早く行こうと催促された。
―― ◆ ―― ◆ ――
大樹は自分のオフィスの窓から外を眺めていた。
オフィスのソファには、背もたれに腕を伸ばし足を投げ出している東吾が疲れた様子で溜息を吐いている。
「まだ午前中だってのに俺は滅茶苦茶疲れてる」
大樹はぼやく東吾に体を向けると、だらしなくソファに腰掛ける東吾の姿に目を向けた。
想像はつく、おそらくどうでもいい問答を繰り返したんだろう。
無視して自分の主張をしろと言ったが、何度も同じ事を繰返すのが嫌になる気持ちは大樹にはよくわかっていた。
しかし、そんな不思議ちゃんを欲しいと言ったのは東吾自身なの
だから仕方あるまい。
「俺さ、朱音ちゃんと何度も話したことあるし、たまに話しについて行けないこともあったけどさ、まさかこんなに疲れる
と思ってなかった。おまえの苦戦、察するよ」
憐れむような視線を投げかける東吾を横目に、大樹は窓際からデスクに戻ると深く椅子に腰かけた。
「でも説得できたんだろ、たいしたもんだ」
「あれは説得だったのかどうか…。今、うちの個性的な二人に連れられてホテル探検に出かけたんだけど、なんだか妙に
気が合っちゃったみたいでさ、俺、仲間外れ」
個性的な二人。
大樹は頭にその二人と朱音の姿が浮かびあがって思わず笑いが漏れる。
「仲間外れにされてここでいじけてるのか?暇なんだなおまえ」
「まさか、青図をもらいに来たんだよ。出来たって連絡くれただろ。そう言うおまえこそ暇そうじゃないか」
大樹は腰掛けたばかりの椅子から立ち上がると、背後の棚から企画中の結婚式場の青図を取り出し東吾に渡す。
「暇そうに見えるか?これでも本業は営業なんだ、午後一で会議、その後は得意先回りに夜はビジネスディナーと
忙しいんだ」
デスクに戻る大樹を眺めながら東吾は、そうか。と、ソファに座りなおした。
「じゃ大丈夫だな、会うことはないか。な、大樹、おまえ朱音ちゃんに何したの?おまえに会いたくないからここには来ないって
頑張ってたけど」
「別になにも」
大樹は上半身だけこっちに向け、何と答えるか目を注ぐ東吾に素っ気なくそう答えた。
ポーカーフェイスで答えたものの、内心どこかショックな自分がいた。
会いたくなったら電話しろと言った時、絶対にしないと即答され、朱音から連絡が来ることはないと確信していた。
かといって大樹からもあれから何のアクションも起こしていない。
何の連絡もよこさない大樹にからかわれた。
恐らく朱音はそう思っているに違いない。
しかし大樹はあえて連絡をしなかった。
歓迎はしていないが、朱音が企画室に入るだろうことは予想していたので、
連絡をしようがしまいが顔を合わすことは必至だ。
それまでの間、強引に押してもダメな朱音には引いてみろと電話すらしなかった。しかし、わかっていながら
本当にそう言われると案外ショックなものである。
「本当に何もしてない?あ〜あ、もう俺は何が何だかわからないよ。あれだけ嫌だって言ってたのが、大樹が歓迎してないの一言で
即オッケー。その前に散々あーでもないこーでもない言ってたのは全部無駄だったんだぜ?おまえの名前が
出た途端、ほんの数分で即決」
溜息まじりにぼやく東吾を尻目に、歓迎しないの一言で返事を覆した朱音に、押してダメなら引いてみろ効果が
少しはあったのを大樹は確信して、さっきのショックはさっさと忘れわずかに片口をあげた。
「そうそう、ダイエット美人ってなに?」
急に思い出した様子で東吾に尋ねられ、大樹は驚いた顔を見せた。
「え?」
「おまえに聞けって」
大樹はくくっと笑うと、「俺の愛人。のことらしい」と、答える。
「愛人!?おまえ愛人なんかいたんだ!じゃあ通い妻は?」
「通いの家政婦」
ハハハと東吾が声をあげて笑いだす。
「アハハ、なあもうひとつ、おまえの名刺持って読みだすアレは?」
笑いながらしゃべる東吾に、大樹もその光景が目に浮かんでフッと噴き出した。
「それが出たら振り出しにもどる。だな」
笑いだした大樹に、東吾は釣られて笑いが止まらない。
「確かに!その後に即オッケーでそれまでの説得は全部無駄になったよ!」
二人でひとしきり笑って落ち着くと、仕事に戻る、と東吾が青図を片手にソファから立ちあがった。
ドアに向かって数歩行ってすぐに立ち止まると、デスクの大樹に振り返る。
「大樹さ、歓迎しないなんて嘘だろ。俺にしっかり助言までして」
「いや、ほんと」
ワンフレーズおいてから答えた大樹に、東吾は首をかしげて「なんで?」と聞いてみる。
「言っただろ、予測不能だから」
東吾は顎を擦り、ふ〜ん、と大樹の顔を含んだ視線で眺めるとニヤっと笑って部屋を後にした。
大樹は東吾の出ていったドアを見つめながら、椅子の背もたれに深く寄り掛かると短く息を吐いて呟いた。
「予測不能か…。俺自身が、だけどね」
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