翌朝、身支度を整え慌ただしく二階から駆け下りて来た朱音は、昨夜テーブルに広げたままの資料を
急いでバッグにしまっている。
それとは対照的にダイニングで余裕な態度でコーヒーをすする大樹は、
毎朝繰り返される朱音の騒がしさにもいい加減慣れてきていた。
「ピエスモンテをどうするつもり?」
「資料見たの?ちょっと考えがあって…資料見てるだけでまだ何も手を付けてないのが現状だけど。
でも大樹よく知ってたね、ピエスモンテって」
答えながらも朱音の手は忙しく動いている。
「前の製菓長がピエスモンテの大会で何度も賞を取った人だから」
「えっ?」
朱音は手を止めて大樹を振り返った。
「その人って今どこにいるの?」
――食いついてきた。
「独立して自分でスイーツの店やってる。それとうちのパティスリーの顧問も」
「じゃあ会社の人?!」
「一応」
朱音の瞳が一瞬輝いたのを大樹は見逃さない。
「まだ何も手を付けてないって事はパティシエも探してないんだろ?どうする朱音、俺にお願いする?」
ニヤリする大樹に、朱音はすぐにお願いしそうになった自分を戒める。
大樹はわかっていてわざわざピエスモンテの話を今持ち出したのだ。しかしこの手のやり取りに何度引っかかったことか。
予想不可能なお願いのお返しにハラハラするのは勘弁。
だが会社にそんな人がいるなら是非ともピエスモンテは作っていただきたい。
「いい、東吾さんにお願いする」
そう、筋を通すならまずは東吾だ。
「東吾?俺にお願いした方が絶対に早いと思うよ。まあ、急ぎじゃないなら別だけど」
大樹の態度は、最終的にはお願いするんだろ。と言わんばかり。だって大樹は絶対に自分の思い通りに事を
運ぶのは得意中の得意だから。
最終的にお願いすることになっても、それでも今ここでするわけにはいかない。
「まずは東吾さんに言ってから!」
無駄な抵抗の朱音に大樹は薄っすら口元に笑みを浮かべる。
「だったら自分で交渉してみたら?今日は役員の会食があるから来るかもしれない。ま、運が良ければ話くらいは聞いて
貰えるかもしれないな。恐らく無理だろうけど。それでダメなら俺にお願いするしかない」
―― ◆ ―― ◆ ――
「そんな訳で凜子さん、その顧問は今日来るんですか?」
今はランチ時、そしてここは社員食堂。
朝一番で東吾に相談した朱音は、『役員の事なら凜子さんに聞いたら?』の一声で凜子とランチ中だ。
「元製菓長の向井顧問でしょ?あんたラッキーね、一応貰った連絡では出席になってるわよ」
「ほんとに!?で、何時です?」
「えっと…確か6時から顔合わせ、7時から会食だったかしら?あとでもう一度確認して連絡するわ。それで
どうするつもりなの?」
「そうですね……」
朱音は箸を置くと前のめりに頭出す。凜子も同じように頭を前に出して朱音の顔に近づけた。
「突撃直談判したらどうなります?相手は会社の偉い人、やっぱりマズイですか?」
「他に思いつかないの?ま、でもそんな事でクビにはならないでしょうね」
「ですよね〜」
朱音は体を戻すと箸を手に取り食事を再開。したかと思うとまた箸を置いて凜子の顔を真顔で見た。
「じゃあ凜子さん、付き合ってください」
「え、嫌よ、なんで私が!」
「違いますよ、凜子さんは誰が向井顧問か教えてくれればいいんです。私、顧問の顔知らないし。
後は私が勝手にやったって事でもう決定です」
「顔なんて写真見ればわかるでしょ」
「写真なんて宛になりません!もし一人で見過ごしちゃったらどうするんですか。凜子さんは私の計画をもう聞い
ちゃったんですよ、それに顧問が来る事を教えたのは凜子さんです。いいですか、凜子さんはもうこの時点で
立派な共犯者なんですからね」
言うだけ言うと、朱音は何食わぬ顔で箸を持って今度こそ食事を再開した。
凜子はしばし黙って朱音の顔を見る。
ただの呑気な不思議ちゃんかと思えば、とんでもない屁理屈を理路整然と言っている事に思わず溜息が出た。
これって誰の影響かしら?当然ながら思い当たるのは一人しかいない。
もしこれを影響を与えた調本人に言われたのなら、まず間違いなく100%誰が何と言おうと絶対にお断りだ。
が、朱音が言うと何故か、仕方ないなぁ、と思ってしまう。
「私は教えるだけよ。いいわね」
「充分です。あとは当たって砕けろのダメ元ですから」
にっこり笑う朱音に、凜子はまた小さな溜息を洩らす。
時にとんでもない事を言い出したりするが、なんだかこの子って憎めないのよねぇ。
5時15分、凜子から緊急連絡をもらい朱音はメインロビーに急ぐ。
凜子の情報によると向井顧問は会食に来る時は、必ずティーサロンによって抜き打ちでケーキを食べる。だから5時過ぎ
には来ているはずだと。
ロビーに行くと凜子がこっちと、正面玄関から少し離れた大きな生け花の陰から手招きしている。
少し息を切らしながら凜子の元に行くと、向井顧問はまだ来てないと教えてくれた。
朱音は深呼吸で息を整え、正面玄関を出入りする人の顔を誰一人見逃すもんかと確認する。
こんな胃が痛くなるような緊張は二度と嫌だなと思って、もう一度深呼吸をした時、
「来たわよ、あれが向井顧問」
と凜子が一人の中年の男性を指差した。
朱音が視線を向けると、50過ぎの見た目はいたって普通の紳士が歩いている。とりあえず声を掛けづらい
タイプではなさそうだ。
朱音は意を決してその紳士に向かって歩きだした。そして前まで行くと震える手をギュッと握る。
「あ、あ、あの!わ、私、企画室の野原朱音と申します!」
突然目の前に現れ、緊張した面持ちで自分の名前を言う女性に向井は小首を傾げた。
「し、失礼なのは重々承知で向井顧問にお願いに来ました。い、一分で構いません、
私の話を聞いていただけませんか?」
―― ◆ ―― ◆ ――
大樹が外出から社に戻って来たのは9時を回った頃だった。
書類の整理だけ済ませ帰ろうとしていた時にドアをノックする音。
――誰だこんな時間に。
大樹は自らドアを開けると、向井が「やあ」と片手を上げている。
「まだいるかと思ってね。入ってもいいかい?」
どうぞ、と大樹がドアを大きく開いて招き入れると、向井はゆっくりとソファに腰をおろした。
「どうしました?わざわざ来るなんて珍しいですね」
大樹が向いに腰を下ろすと、向井はわざとらしく溜息を吐く。
「いつもの事だがここの会食ってやつは苦手でね」
「年寄りの相手は大変ですから」
向井はハハハと笑うと身を乗り出す。
「なあ、大樹君。たしか企画室って君の管轄だよね?」
「そうですが。何か?」
「いや、実は今日、企画室の子が突然来て一分でいいから話を聞いてくれって言うんだ」
大樹はフッと口元に笑いを浮かべる。
「――野原朱音」
「そうそう、その野原さん。それが緊張した様子が面白くて、思わず十分でも二十分でもいいよって言ってしまったよ。
それにしても面白い子だったな」
クスクスと思いだし笑いをする向井に大樹が口を開いた。
「それで、向井さんの答えは?」
大樹の単刀直入な問いに向井の笑い声が大きくなる。
「やっぱり君が彼女を差し向けた?」
「いいえ、僕は何も。ただ顧問にピエスモンテで有名な人がいて、今日ここに来るかもしれないと
教えただけです」
薄っすら笑いを浮かべる大樹に、向井はなるほど、と思い深くソファに座りなおした。
「まあ、どっちでも構ないがね。しかし企画室ってのは面白い事考えるんだな。聞いてて笑ってしまったよ」
内容はわからなくても面白くて当然だと大樹は思っていた。そもそもその為の企画室。人並みの企画しか出来ないようなら
存在自体に意味がない。
「向井さんも含めてクリエイターってそんなもんじゃないですか?」
「俺もか!」
向井はハハハともう一度声を上げて笑うと、すぐに真面目な顔をした。
「答えはもちろんオッケーだよ」
返事など聞かなくてもわかっていたように、大樹は驚きも何もしない。
「お忙しい向井さんがよく引き受けましたね」
「野原さんの話が面白くて興味が湧いたからかな?もっとも大樹君から聞かされたら断っていたかもしれないな、
例えうちの店のオーナーである君のお願いだとしてもね」
向井がちらり大樹を見れば素知らぬ顔をしている。
「そう言うと思いました」
まったく人の性格まで読んで仕掛けてくるとはたいしたもんだ。
向井は内心そう思った。普段の向井ならあんな場合まず間違いなく話など聞かないだろう。
しかし物凄く緊張した様子で、額が床にくっつきそうなほど頭を下げる朱音に興味が湧いた。勘としか
言いようがないが面白い話が聞けそうな気がしたのだ。
向井はクスッと腹の中で笑ってしまう。ちょっと変わったものに興味を惹かれる自分を。
きっと大樹に言わせれば『類は友を呼ぶ』なのだろう。
「だからって経営から手を引くなんて言うなよ。俺は金の心配をしながらスイーツを作れるほど器用じゃないんでね」
「何を言ってるんです。僕は何もしてません。向井さんの腕いいからです」
僅かに目を細める大樹に、よく言うよ。と向井は思った。
「いやそんな事はないさ。君なしでとんとん拍子に三店舗も出せると思うかい?」
「僕は投資のつもりで決して向井さんから儲けようなんて思っていませんが」
相変わらず薄ら笑いの大樹に向井はフッと小さな息を吐いた。
――じゃあ君は儲けるためにいったい他にどんな店を何店舗持っているんだい?
喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
聞いたところで大樹が答えるとは思っていない。彼のことだ、きっと『何の話でしょう?』 とニヒルに
そう言うだけだろう。
「確かにそうだな、俺は好き放題やってるしな」
向井は笑いながらそう言って立ち上がった。
「まあ、そんな訳で最近はすっかりご無沙汰のこの古巣にちょくちょく来る事になる。よろしく頼むよ」
「こちらこそ。なにしろ企画の連中の注文はなかなかうるさいですよ」
「だろうな。もうすでに無理難題を宿題にされたよ」
困った顔をして見せながら、それでもどこか嬉しそうに向井は大樹のオフィスを後にした。
―― ◆ ―― ◆ ――
向井に了承してもらった事で興奮気味だった朱音も、家に帰りのんびりしているうちに気分は落ち着いてきた。
凜子のおかげで向井に会うことが出来、大樹にお願いせずに済んだが朱音は妙にすっきりしない。
「お願いして欲しそうにしておいて、わざわざ今日来るって教えるなんて大樹らしくないな」
一人しかいない部屋でわざわざ声に出してみる。
「端から私に交渉なんて出来ないと思ってた?」
考えてわかるはずもないがやっぱりすっきりしない。
朱音はテーブルのチョコレートに手を伸ばし一粒頬張る。
今日は緊張したせいか甘いものがやけに美味しく感じる。と、幸せな気分に浸っていると朱音の頭にフッと浮かんだ。
「もしかしてこれが思い通り!」
やられた!お願いしたくない事ばかりに気を取られ、結局は大樹の思うように動かされた?!
悔しい気もするが朱音は可笑しく思う。やっぱり大樹にはかなわない。端からかなうと思ってはいないが……
でも次は絶対にそう簡単にいかないんだからね!!
そう思いながら、毎日顔を合わせているのに、今、無性に大樹に会いたい。
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