40 母は強し




 母、安藤結布子あんどうゆうこ52歳。
 どこかのニュースキャスターと同じ名前ね、などと決して言ってはいけない。 毎度初対面の人に言われうっとおしくなったようで、必ず、読みだけで字が違う!と言い返される。

 父、弘志ひろし(享年55歳)とは社内結婚。 惚れられて惚れられてとことん惚れられ結婚したらしい。あくまで母曰く、だけど。

 この夫婦、文句を言い合い喧嘩しいしいそれでも結構な仲良しだった。 専業主婦だった母は、父の定年後に二人でいろんな所を旅行するのを夢見ていたけど、 私の結婚後間もなく亡くなった時にその夢も崩れ去りそりゃもう落ち込むのなんのって。
 日頃、元気なパワフルお母さんが毎日一人静かにしている姿なんて信じられなかった。
 ところが父の一周忌の法要の日、喪服を脱いだ母がにっこり笑って言ったの。

『さて、お父さんの為に一年間喪に服したからもういいわね。これからはエンジョイマイライフ、 自分の為に楽しく生きなきゃ!』







「ハハハ、前向きなお母さんだね」

「今じゃヨガに社交ダンス、カラオケ教室にも通ってる。モテるのよ、 とか言っちゃって週替わりで習い事で知り合った男友達とデートしてるの。 私が離婚した時なんかなんて言ったと思う?『離婚するのは勝手だけどここには帰って来ないでね。 私はあんたの母親はもう卒業したんだから世話なんて焼きたくないわ』だって」

「いいじゃないか、俺がいるんだから」

「うん、でもね、村瀬さんがいい男じゃないと家に入れないって言ってた」

「マジで?そりゃ困ったな、門前払いじゃ許可も何もないな」



 お母さんてどんな人と訊かれ、こんな会話を村瀬さんとベッドの中でしたのはほんの三日前。
 とうとう来てしまった土曜日。余裕綽々の村瀬さんに対して緊張気味の私。自分の親に会うのに、 しかも自慢にならないけど二度目なのに。

 ちらし寿司を作るから早めの夕方に来いという母。早めの夕方って何時よって聞いたら夕方の早い時間よってさ、 わかんない。村瀬さんに聞いてみたら、ふ〜んて一瞬だけ考えて、4時頃じゃない?って簡単に答えちゃってるし。


 やっぱりスーツだよなって村瀬さんはライトベージュのサマースーツ。 ちょっと堅苦しい気もするけどその選択は正しい。だって村瀬さんはスーツ姿がとてもサマになる。
 私は…実家にお洒落して行くのも変だけど、無難にライトグレーのローウエストプリーツワンピ。 これならスーツの隣でも変じゃないでしょ。



 4時10分過ぎに実家に到着。出てきた母は村瀬さんを見るなり、 時間通ねって超にっこり顔で家に招き入れた。つまり早めの夕方は4時頃で、『いい男』の条件もクリアしたみたい。
 母への手土産は大好物のと○やの羊羹。そして真っ先に仏壇に手を合わせる村瀬さんの好感度はかなり高いと思われる。 だってお茶を出す母の顔ったらもうニコニコだもの。



「堅苦しいのは無しにしましょうね。足なんか崩しちゃっていいから、胡坐でいいのよ胡坐で」

 古い戸建てだからフローリングのリビングなるものは無い。せいぜいダイニングキッチン(英語で言うのも変だけど) と廊下が板張りなくらい。だからここは和室の居間。私達は真ん中に陣取っている黒い大きな座卓を前に座っている。
 なので母の言葉で真っ先に足を崩したのは私。するとすかさず母が突っ込む。

「結衣に言ったんじゃないでしょ」

「す、すみません…」

 村瀬さんがクスクス笑ってる。ほっんとにまったく緊張なんかしてないみたい。まあね、 一応営業だから人に会うのは慣れてるのかもしれないけどさ、「お言葉に甘えて」って足を崩してるし。
 そんな村瀬さんを観察しているのかじーっと眺めてた母が、あれ?という顔をした。

「あなた、前に一度会ってるわよね?」

「はい。もうずっと前ですけど、結衣さんを送ってきた時にお会いしてます」

「そうよ、そうそう!あの時の。あ、私の前で結衣さんなんて“さん”づけしなくていいわよ。結衣でいいの結衣で」

 そうそうってお母さん、よく覚えてるなぁ、何年前よ。だって玄関先でこんばんはって数秒顔を見た程度よ。

「いい男は忘れないものね。まあ結衣にしたら上出来でしょ」

「お母さん!」


 この人は…もう!なんだかんだと勝手に一人で話しを進めている。くだらない世間話なんて省略よと、 いきなり何を言い出すのかと思いきや、いい大人の娘の交際相手にいちいち口を出すつもりはないけど、 念のために結婚の意思はあるのかと直球すぎる質問をぶつけている。
 村瀬さんは村瀬さんでプロポーズした事を報告しているし、母は母でこの子は結婚に懲りてるからねぇ、 って私の入る隙なしで会話してる。


「でも本当に結衣でいいの?そもそも結婚なんて男にとっても忍耐だらけよ。結婚してからダメだったなんて困るのよ、 ほら、この子既に失敗してバツイチだし。よ〜く考えた方がいいわ」

 お〜いお母さん、何を言ってるんですか!まるで私がダメな嫁だったみたいじゃないの。

「三年間考えた結果ですけど、足りませんか?」

 村瀬さん、それは言わなくていいんじゃない?

「まあ、三年!」

 そりゃおどろくよねぇ。
 目をまん丸にした母が私の顔を見て、ふぅと溜息。何をどう解釈したのか、

「でもね、恋愛と違って結婚て思ったよりも甘くないのよ?」

 と言いながらニコーッと笑って村瀬さんに顔を向けると、人差し指を立てて前に突きだした。

 な、なに?その指なに?ちょ、ちょっと、村瀬さんも、は?って顔してるよ!

「スゥ〜〜〜〜〜」

 その時、母が大きく息を吸い込んだ。まさか深呼吸じゃないよね?

  「まずその1っ、妻はセックス付きの家政婦じゃないっ!これが大前提」

 セッ…セックスゥ?!
 バ、バ、バカじゃないの?!な、な、何を言い出すのよっ?!
 そりゃね、いつも私が言ってるセリフだけど、今ここで言うかぁ?!

「その2っ!」

 今度は指を二本突きだしてるよ!
 村瀬さんなんか圧倒されてフリーズしてるじゃない!

「妻は家政婦じゃないんだからやってもらって当然なんて思わない事!」

 あ〜あ〜あ〜あ〜あ〜

「その3っ!」

 母の指は3本。
 はぁ〜あ、もう止められないね。

「浮気するならバレないように!バレるくらいなら浮気なんかするな、ましてや本気になってはいけない、 間違っても子供なんか作るな!」

 チッチッチっと指を左右に振る母。そして手を引っ込めるともう一度ニコーっと笑った。

「男には男の言い分があるでしょうけどこれは妻の言い分。ね、現実ってこんなもの。 あ、その3の後半は多いに私情が入ってるけどね」

 村瀬さんのフリーズが解けたのはこの三秒後。ゆっくりと横に座る私に顔を向けた。
 私は…思わぬ母の代弁に苦笑い。そして村瀬さんはぼそっと言った。

「結衣が結婚したくない理由って…その1?」

 アハハ…、あえて聞かれると答えにくいものね。ズバリ理由はそうなんだけど、この場合、 村瀬さんが家政婦扱いするって意味にも取れちゃうでしょ。
 答えに困っていると、母がすぐに介入。

「結衣、こういうのは言った者勝ち。ちなみにその4は不満は溜めずに適度に口に出す、よ。 言わないからその2になるの、わかってる?家政婦扱いされたのは自分の責任でもあるってこと」


 いやぁ、勝ちとかそういう問題じゃないけど…確かに私は溜めるばかりで口に出さなかった。 だって、言ったら言ったで超不機嫌になるんだもの、逆切れされるくらいなら沈黙は金だよ。

「いい、言って文句言われたら言い返せばいいの。ケンカしたって一緒の布団に寝ればすぐに仲直りよ。 夫婦なんてそんなもの。まれに他の女に逃げたりするのもいるけど、そんな男はこっちから願い下げ。 恋人同士だってそうでしょ、セックスってね、何も快楽や子作りの為だけじゃないの。 使いようによってはなかなか便利なのよ。ね、村瀬さん」

「お母さん!!」

 あ〜、もう顔から火が出そう。堂々とセックスって言っちゃて、同意を求められてる村瀬さんが少々困り顔。 普通そうでしょ、親にセックスは便利よ、なんて言われたらそりゃ答えようがない。 今時、大人の恋人同士が清い関係なんてまずないけど、まさか親の前でそんなセックスしてます宣言もどうかと思うわ。
 それなのに、お構いなしの母の雄弁はまだまだ続く。

「ま、結衣がもう結婚したくないって気持ちはよくわかるけどね、こんないい男のお嫁さんにならないのは勿体ないわよ。 その1についてはよく話し合う事。なんなら村瀬さん、今日このままお持ち帰りしちゃって、 一生帰さないつもりでね。それでも結婚しないって結衣が言ったら、そうね、子供でも作っちゃいなさい」

「お、お母さん!!」

 もう!セックスは便利発言の次は子供ってさ、この親ったら何考えてんのよ!

「なに?結衣の相談ってこういう事でしょ?解決じゃない。さ〜て、早いけど食事にしましょ」

 そうだけど、なにもこんな解決方法じゃなくてもよかったんじゃないの?
 さっさと立ち上がって台所に消えて行く母。へなへなと力が抜ける私。そしてくくくと笑いを堪える村瀬さん。


「ご、ごめんなさい、村瀬さん」

「いや、でも面白いお母さんだね、俺、ほとんど喋ってないのにお持ち帰りのお許しまでもらった」

「違う、お母さんもだけどあの…その1のこと…」

 村瀬さんが私の顔をじっと見て、そしてフゥと小さな息を洩らした。

「やっぱりそうか。あれって結衣の事なんだね」

「う、うん。で、でもね、村瀬さんがそうだって意味じゃないの」

「わかってる。でもどうして言わなかった?俺は性格の不一致と浮気が原因としか聞いてなかったから、 そんな事思いもしなかった」

「ご、ごめんなさい…」

「って言えるわけないか。結衣が謝る事じゃないよ、俺だって結婚した理由にばかり囚われて離婚についてほとんど聞いてないし。 こんなこと自分から言えるはずないな」

 村瀬さんが肩で息をして遠くに目をやった。黙って、何を考えているのかしばらく静かにただ遠くを見つめていた。



 寿司桶を抱えた母が戻って来ると、静かだった居間が途端に賑やかになった。 座ってないで手伝いなさいと私を台所まで連れて行くと耳打ちをする母。

「きっかけは作ってあげたでしょ、後は自分の口で言う事。その4よ、その4」

 ペシッ!と背中を叩く母に、ありがとうと言うべきなんだろうと口を開こうとしたら先を越された。

「お礼は…そうね、今度こそ孫の顔を見せてよね。結婚の報告は電話でいいからね。 お式を挙げるなら全部お任せするから勝手にやって ちょうだい。でも困ったわねぇ、二度目だとそうそう盛大なのもどうかしら?」

「ちょっ…気が早いって!」

「そう?あんた三年も待たせてそれは無いんじゃない?」

「・・・・・!!」

 そ、それを言わないで!!絶対母なりに勝手な解釈してるよ。

「今だから言えるけど、前に送って来たでしょ、あの時お母さんなりに感じるところがあったのよ、あ、この人が娘婿になるって。 結局は違ったから単なる私の願望だったのねって思い直したけど、そういう勘って当たるのよ」

 それだけ言うと母はふふふと笑いながら使い慣れた台所をテキパキと動き回っていた。何があったかなんて聞いてこない。
 そしてよほど村瀬さんが気に入ったのか、それとも気が合うのか、私の存在を忘れたかのように一人占めで終始ご機嫌。 三人でこんなにたくさん食べきれないでしょ、ってくらい沢山の母ご自慢の手料理は帰りにしっかり持たされ、玄関での別れ際、 村瀬さんに本当にこのままお持ち帰りしてちょうだいねって念を押した。



 母に仕切られっぱなしのこの数時間、どっと疲れた私を余所に村瀬さんの足取りは軽やか。駅までの道のり、 何度も母の発言を思い出しては笑ってる。そして言ったの。

「帰ったらその4とお母さん推薦の便利な行為、さっそく実行しようか」

「え、その4って…村瀬さんに不満はないよ?」

 村瀬さんが足を止めて私に顔を向けた。

「いや、あるよ」

 伸びてきた腕が私の肩を抱き寄せてそして続けた。

「その1、俺に話して、少しずつでいいから。不満は解消しよう、そうしなきゃ結衣はいつまでも結婚してくれないだろ?」

「でも…村瀬さんに対する不満じゃないのに?」

 見上げると笑ってうん、と頷く村瀬さん。

「俺の気も済むから」

「どういうこと?」

 それはね、そう言って村瀬さんは私に笑いかけると、すぐに悔しそうな表情に変わりふんと鼻を鳴らした。

「だいたいな、結衣と結婚までして俺に言わせりゃそれだけでもラッキーなのに、 家政婦扱いなんて元旦那に腹が立って仕方ない。それに…いや、いいや、それは帰ってから」


 続きが気になったけど、手を上げる村瀬さんの視線の先に目をやるとちょうど空車のタクシー。 乗り込んで行き先を告げた村瀬さんが急に何かを思い出したようにクスって笑った。

「それにしても…その1っ、その2っ、には驚いた」

 母の真似をして指を出す村瀬さんに私も吹き出してしまった。 バックミラー越しに運転手さんと目が合うと楽しそうですねと声をかけてきた。

「新婚さんかな?」

 運転手さんの問いに私と村瀬さんは顔を見合わせた。何を思ったのか村瀬さんは「そうですよ」と答えてニコッリ。
 そうだ、和蘭芹の時もこんな感じで誤解されたんだと急にマスターの顔が思い浮かんだ。そう言えば暫く行ってない、 きっと村瀬さんが本当にプロポーズしたと知ったらマスターは驚くだろうな。和蘭芹かぁ… お腹一杯のはずなのに思い出したらグラタンが食べたくなってきちゃった。


「そう言えばマスター元気かな?来週にでも顔見に行こうか、結衣もそろそろグラタンが恋しいんじゃない?」

 さすがエスパー村瀬、私の考える事はお見通し。
 うん、でも和蘭芹に行くのは賛成。だって私の人生におけるターニングポイントは常にあそこからだ。
 (村瀬+私)×和蘭芹=大凶を、自分の手で(村瀬+私)×和蘭芹=大吉に変えるのもいいかもしれない。

 ううん、=happyがいいかな?



 





 本当はわかっているんです、元旦那様が浮気したのは私にも責任があるのだと。
 もちろん、家政婦扱いされたのも、少なからず私に原因があるのだととっくに気付いています。

   だから、母の言うことはもっともで、  新婚だと思い込んでいる運転手さんが新妻の私を冷やかします。
 当然、村瀬さんも一緒になってそれを楽しんでます。

 村瀬さんの新妻。照れくさい気もしますが、正直な気持ちを言えば嬉しいような…
 不思議なものです、初めてじゃないのに、新妻という響きがこんなにくすぐったいものだとは知りませんでした。






感想などいただけると嬉しいです。誤字脱字も コチラから


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