35 リスタートと指輪の想い
頭が痛い。
とっくに涙は乾いたけど、泣き過ぎて酸欠になったんだ。
なんだか気持ち悪くなってきた。これってストレス?うっ、吐きそう…
「…結衣?」
村瀬さんが、ずっと握っていてくれた手を離して顔を覗きこむ。今にも戻しそうで私は手で口を押さえた。
「気持ち…わ、る…」
あ、ダメだ、吐く…
突き飛ばすように村瀬さんから離れてトイレに駆け込んだ。
胃の奥からこみ上げるのは吐き気ばかりで、何も出てこないのがかえって苦しい。しゃがみ込んで肩で息をしていると、
大丈夫か?と村瀬さんが来て背中を擦ってくれた。
「大丈夫…」
また涙が出てきた。情けないから便器を抱えてる女に優しくしないで欲しい。今の私には堪える。
ああ、泣いたらもっと頭が痛くなってきた。息が苦しくなってきた。うっ、また気持ち悪い…
「全部出した方が楽になる」
村瀬さんが言ったと同時に私は吐き出していた。確かに胃は楽になったけど息苦しくて頭をあげられない。
最悪。便器を抱えてるどころか顔を半分突っ込んだ状態の私は、
情けないのを通り越して、このまま吐しゃ物と一緒に流されたい気分。
それなのに、村瀬さんは自発的に行動するのを放棄した私を支えながら、
洗面所まで連れて行って顔を洗ったり口を濯がせたりする。少し汚れてしまったシャツまで着替えさせて…
「…ご、めんな…さい」
「気にするな、結衣の面倒見るの俺の趣味」
村瀬さんはソファでぐったりする私にグラスの水を差しだす。
笑顔で言わないでよ。それにこのごめんなさいは誤解してごめんなさいだよ。
「急にこんな話聞いたら気分も悪くなるな。ベッドに連れて行こうか?」
グラスに口を付ける私の額に触れる村瀬さんの手が冷たくて気持ちいい。
「ううん…座ってた方がらく。でもね…」
「うん?」
「私は…どうしたらいい?ごめんなさいで済まない…よね?村瀬さんが消えろって言うなら…消えるよ?」
自分の言葉に胸が痛む。きっとあの日、村瀬さんの胸はもっともっと痛かったんだと思うとやるせない。
しかもそうさせたのは私。恨まれても仕方ないくらい酷い事した。
グラスを持つ手が震える。知らなかったとはいえ、人を傷つけると自分も傷つくんだね。
罪悪感でまともに村瀬さんの顔が見られない…
「消えてどこに行く気?結衣は俺と一緒にいればいい。
俺は結衣に嫌な思いをさせたくてにこんな話しをしてるんじゃないんだ。だから最後まで聞いて欲しい、
結衣は何も答えなくていいから」
一緒に…ああ、そうだね。消えるのは逃げることだ。それは卑怯だね。逃げないって約束したもの。
最後まで聞くのが私の贖罪。ううん、それで罪が消えるはずもないけど。
だけど、後悔と罪悪感に完全に心が弱っている。だから、もしこれ以上の衝撃を聞かされたら、
私はいたたまれずにきっと即死するだろう。
村瀬さんは、脱殻みたいな私の隣に腰掛け優しく抱き寄せる。
私は村瀬さんの胸に頭を預け、顔は見えないけれどこの態勢はとてもらくだった。
静かに野間との経緯や、私に告白出来なかった理由を話す声が耳に入って来る。
内容は理解出来た。村瀬さんは何度も俺が悪い、俺のせいだって言う。
でも、聞けば聞くほどそれは村瀬さんのせいじゃない。途中経過がどうだろうが、
私と村瀬さんの仲をぶち壊したのは他でもない私自身、逃げた私のせい。
あの時、言いつけどおり村瀬さんの帰りを待っていて、そしてその場で追及すればすぐ誤解は解けたのに。
何てことない嬉しい勘違いで済んだのに。
「私を…憎んだ?」
ずっと黙って聞いていたのに、急に口を開いた私の顔を村瀬さんが覗きこんだ。
「憎い、というより信じられなかった。いや、信じたくなくて真実を知るのが怖かった。
捨てられたって事実を認めるたくなくて半年も連絡するのを躊躇っていたんだ。
バカだよな、躊躇ってる間に結衣は結婚してしまったというのに」
ううん、バカは私。美穂があんなに反対してたのを本当は自分でもよくわかってたんだ。失恋は初めてじゃないのに、
何を考えて私は他の男で埋めようとしたんだろう?それもいきなり結婚なんて。結果、元旦那様にも迷惑かけた。
「俺を忘れるために結婚したって聞いて、正直そこまですることないだろって思った。
でも、さっきのでわかったよ、結衣は俺が結婚したと思ってたんだよな?
二股どころか結婚を約束した人がいるのに、結衣を抱いたって思ってたんだよな?遊ばれたと思って当然だ。
ひでー男だな、俺って」
村瀬さんが卑下た笑みを浮かべた。
お願いだからやめて、自分をそんな風に言わないで。
「誤解した私のせいだから…村瀬さんは悪くない。結婚したのだって私の意思なんだから…」
ゆっくりと村瀬さんの顔を見上げると、今度は哀しそうな表情で…
「違うんだ…誤解でも何でも結婚した結衣が幸せならそれでよかったんだ。縁がなかっただけだと…。
でも違った。仮に俺と結衣が結ばれなかったとしても、もっと早く気持ちを伝えていれば、
少なくとも結衣は結婚して、その結婚に傷つく事はなかっただろう?」
胸が締め付けられる。元旦那様には申し訳ないけど、今ほど結婚したことを後悔した事はない。
村瀬さんと結婚出来たかもしれないっていう事じゃなくて、私の浅はかな考えでした結婚で、
こんなにも誰かにつらい思いをさせるなんて思わなかった。
私だけの問題なら、どんなに辛くても自業自得だけど、村瀬さんの痛みを引き受けられないのが辛い。
「結衣が誤解してると気付いたけど言うつもりはなかった。俺だってかなり堪えたんだ、
結衣の気持ちを考えたら言えなかった。でも良く考えたら、俺はずるいと気付いた。
自分のしでかしたことを隠してることにもなるんだよな。言わなかった結果、
また結衣に嫌な思いをさせた。ごめん、結衣」
嫌な思い。きっと野間のことだ。でも、決して野間の肩を持つわけじゃないけど、
もし卓也が村瀬さんと同じ立場で、私が野間だったら似たような事するかもしれない。
でもこれでわかった、野間が私を好きになれないと言った理由が。私だってそんな女好きになれない。
むしろ軽蔑する。ハハ、可笑しい、自分で自分を軽蔑するってことだ。
そんな女が嫌な思いをするのは当然。だから村瀬さんはずるくないよ。
「謝らないで。私のせいなんだから責めていいんだよ?」
「責める気なんかないよ。それに出来ないな、今こうして結衣はここにいるし、惚れてるから」
「じゃあ嫌いになって」
「忘れた?嫌いになろうと思っても出来なかったって。それも二度とも」
「二度?」
村瀬さんはクスって笑いながら、お互いの顔が見えるように私の体を少しずらした。
「最初は結衣が結婚したって聞いた時、二度目は柳沢と朝帰りした時。
どうしても結衣が俺だけを見てくれないなら、嫌いになるしかないだろう?何度も切ない思いをするのもイヤだったしね」
「だったらそのまま…嫌いになればよかったのに…」
「それは無理。この先何があっても嫌いにはなれないと思う」
言いながら村瀬さんは私の額にそっと唇を寄せた。
「過去に戻れるなら俺はあの日からリスタートしたい。でも思った、もし戻れたとしてもきっと結果は同じなんじゃないかって。
それに現実的にこの三年間をやり直すなんて出来ないしね。結局、縁がなかったんだよ俺達」
縁がない。胸にグサリときた。どんなに好き合っていても縁がなければ一緒にはなれないってことだね。
そしてそれは今でも続いてる。
結婚したくない私に結婚は考えてない村瀬さん。
なにも結婚がずっと一緒にいられる約束じゃないけど、
たかが紙切れ一枚が、恋愛関係よりも二人を深く繋ぐのは事実だ。離婚した私が言うのもなんだけど。
それにしても、縁がないって本当だ。完全に誤解が解けて、
それこそ何の障害もなく、結婚しようとすれば出来る二人にその気がないって笑うしかない。
こんな私だって昔は甘い結婚生活を夢見ていたのに、蜜月なんて言葉は嘘だ、
現実は甘いどころか我慢と忍耐の日々ばっかり。
「ちょっと待ってて」
そっと私の体から離れた村瀬さんが立ちあがった。
ふと我に帰って村瀬さんを見ると寝室に入って行く。ふぅ〜と自然と溜息が出ると同時に悟った。
縁がないならきっとこの関係もそんなに長くは続かないんだろうなぁ…と。
というより、罪悪感で今までと同じ態度で村瀬さんに接することが出来るか自信がない。
村瀬さんは私に頼られたり面倒見るのが好きだというけど、きっと私が出来ない。
そのうち他の人に頼られるようになってその人を好きになるんだ。その人の面倒を見たくなるんだ。
ちょっぴり、ううん、かなり悲しいけれどそれでいい。村瀬さんにはくされ縁より良縁を掴んで欲しい。
パタンとドアの音に顔を向けると、村瀬さんが手に何か持って戻って来た。
私の横に来ると、手に持ったそれを差し出しながら隣に腰掛けた。
すぐにそれが何だかわかって、一瞬、えっ?と思った。なんでこんな物?
「これを結衣に渡すはずだった」
小さなビロード張りの小さな赤い箱。中を見なくたってわかってしまう。
村瀬さんは蓋を開き私の掌に乗せた。見る気はなくても目に入ってしまうその指輪は、Vラインの中央にダイヤ、
そして両サイドのやや小粒のピンクダイヤがとても華やかで、思わず私は魅入ってしまった。
「ねえ、結衣」
村瀬さんの声に顔をあげると、私の掌からケースごと自分の手に戻した。
「可哀想にこの指輪、ずっと引出しの中で出番を待ってたんだ」
「出番?」
「考えたんだ。この三年を消せなくても塗り替える事は出来ないかな?」
「?」
「三年前は縁がなかった俺達でも、今こうしているのは縁があるからじゃないのかな?離れていた三年は俺達に必要な時間だった。
この三年があったから今があるって思えないか?でなきゃこのタイミングで再会したりする?」
ニコッと私に笑いかける村瀬さんが何を言いたいのか理解できない。眉を寄せて首を傾げると、
指輪をつまんで取り出した村瀬さんは…
「本当は新しいのを用意するつもりだったけど…俺の気持ちは三年前と変わってない、その想いがこの指輪」
そう言って私の左手を取り、とても真剣な顔をしたの。
「結衣、俺が嫌な思い出全部忘れさせる。俺が幸せにするって約束する。だから…」
え、え、え…?
まさか、まさか、まさかの展開?いやいや、まさか!ううん、でも、
目の前で村瀬さんは私の左の掌に指輪を乗せた。
待って、待って、ちょっと待って!その先を言わないで。
もし、もし、もしも、私の想像が正しいのなら、本日二度目のその衝撃は大きすぎてマジで即死しちゃう!!!
「愛してる結衣、結婚しよう」
うわぁ…、言っちゃったよ、聞いちゃったよ!!
左手に握らされた指輪、真剣な顔の村瀬さん。
そして、一瞬、私の心臓が止まった、ような気がした。
完全に容量オーバーな私は、本当にその場で即死…、いいえ、意識がダウンしました。
村瀬さんが愛してると言ったのは夢か現か…
しばらくして意識を戻すと、心配そうな村瀬さんの顔がありました。
「驚かせた、ごめん」
また謝る村瀬さんは、額に掛る私の髪をかきあげながら優しく言うのです。
「結衣が結婚したくないのは知ってる。だから待つよ、結衣が結婚したいと思うようになるまで」
ああ、あれは現実だったんだと左手を見れば、握っているはずの指輪が見当たりません。
失くしてしまったのかと慌てる私に村瀬さんは、
いつの間にかケースの中に戻った指輪を私に渡したのです。
「オッケーならその指輪をはめて。ノーなら突き返していい。すぐじゃなくていい、答えが出るまで俺はいつまでも待つ。
返されない限り望みは捨てない。でも易々と逃がす気はない」
不敵に笑って、有無も言わさず私に唇を押しつけてきます。
易々とって…ずるいと思いませんか?キスだけで私が熱くなるのを知っていて、
村瀬さんはとてもとても甘いキスを仕掛けてきます。
私は、心では村瀬さんの想いに甘えてはいけないと思いつつ、体はその唇に応えてしまう。
もう結婚なんてしたくないのは本心だけど、もし私が知っている結婚生活と違うものがあるなら、
もう一度してみるのもいいかもしれません。
愛しい旦那様と可愛い子供達。ケンカしたり仲直りしたり、それでも一緒にいるのが当り前で、
死が二人を別つまでずっと一緒で…
村瀬さんの甘いくちづけを受けながら、私は何度も心の中で繰り返しつぶやきました。
また結婚するの?もう、したくないんじゃないの?
何故、もう結婚したくないって思ったの?
私はずっとずっと村瀬さんを好きでいたい。だからこの関係がお互いにとってベストなのだと。
だけど、同時に思い出したのです、卓也が言っていたことを。
『プロポーズされる度に別れるのか?』
ええ、本当はわかっています。結婚したくないのは自分にとって都合がいいだけです。
だけど…
ねえ、村瀬さん。
本当に私でいいんですか?
あなたを傷つけた、自分勝手な女ですよ、私は。
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