32 お人好しと決意




「答えないなら強制連行するよ?」

「や、柳沢…」

「でも、その前にもう一回キスしよ」

 ゆっくりと近づく唇。だけど寸前で私は下を向いた。

「ダ、ダメ…!」

「・・・・・・」

 息がかかるほど超接近で止まった柳沢の視線を感じる。腕は背中に回されているからこれ以上動けない。 下を向いたままの私に黙ってる柳沢。な、なんて言うべき?やっぱりごめんなさいだよね。

「ご、ごめん!柳沢、ごめんなさい!」

 柳沢の顔が見れなくて下を向いたまま言った。するとクスって笑う声がしてその後すぐに腕が緩められた。

「答えは出たね」

 そう言いながら柳沢は私の両肩を掴み、自分の体から私を離した。
 え?って顔をあげた私に、柳沢はニコッと笑った。

「俺って偉いと思わない?結衣を奪うチャンスなのに村瀬さんにわざわざ居場所教えちゃって」

「?」

「別にこのまま結衣をさらってもいいんだけどさ、それじゃ結衣の気持ちはずっと村瀬さんに残ったままじゃん。 俺、そんなの嫌だから」

「え、なに?わざと…なの?!」

「柳沢っていい人!なんて思っちゃった?アハハ、言っておくけどそこまでお人好しじゃないよ。今、 村瀬さんと会ったからって上手くいくとは限らないしね。もしかして別れちゃうかもしれないじゃん。その時は俺の出番。 いくらでも結衣の気が済むまで慰めてあげるつもり。それにさ、どさくさにまぎれてキスしちゃったし。 正直言えばその先もってちょっとは下心あったけど、この状態で村瀬さんの代わりは嫌だから」

 バカだなぁ、柳沢。もし私が当事者でなくて柳沢の恋を応援する第三者だったら、 間違いなくなんでさらって行かなかったのって言う。でも、当事者としてはきっと悩むに違いない。

「ううん、柳沢は柳沢だよ。腕の感触も抱き締め方もキスの味も村瀬さんとは違うもの。 それなのに代わりだなんて思えないよ、きっとね」

 きっとどころか絶対にそうだ。
 だって、一瞬でも柳沢を男として意識しちゃったんだもん、もしあのまま強引に連れ去られてナニしちゃったとしても、 村瀬さんの代わりなんて思えない。絶対に本人には言わないし、ナニするのもあり得ないけど。

「嬉しい事言ってくれるね。やっぱり連れて行こうかな、な〜んて。でもさ、キスに味なんてある?」

「うん、ないけどある。説明できないけどね。てかさ、柳沢の方が絶対的に経験豊富なんだからわかるでしょ? ほら、イヤリングの彼女達」

「あ?ああ、そんな時代もあったなぁ。最近すっかり御無沙汰、そんな気も起こらない。 それにそんな彼女達とはあんまりキスした記憶ないしね。だから味なんて言われてもなぁ」

 そんな時代っていつの時代だ。突っ込みたかったけど柳沢が話しを続けてるからやめておいた。

「じゃあさ結衣のキスがどんな味かもう一度味見させてよ」

 唇を突き出しながら顔を近づけてくる柳沢の胸に手を当てて、これ以上近づけないように肘を伸ばす。

「こ、こら!調子に乗るな!」

「ケチ」

「そう言う問題じゃないでしょ」

 二人して吹き出した。やっぱりなんだかんだと私はこんな柳沢が好き。あ、くどいようだけど男としてじゃなくね。
 一緒にいて楽だから。無理しない素の自分でいられる。だからって村瀬さんの前で私は無理をしてるわけでも、 素の自分を隠してるわけでもない。違うのは恋愛感情が存在してるかしてないか。それともうひとつ、 違いに気付いちゃった。

「俺そろそろ退散するよ。村瀬さんに殴られたくないからさ。めっちゃ挑発したからすんげー剣幕だった」

「うん」

「この際だから全部聞いちゃえよ。野間さんのことも、三年前のことも」

 もうひとつの違いはこれ。
 柳沢は三年前の事を知っている。美穂に散々私の気持ちの解説付きで聞かされてるから、私も今更隠す事でもないと、 柳沢がその事に触れてきても平気で答えたりしてる。そして、前に酔った勢いで結婚生活の愚痴を全部喋っちゃってる。 そう、村瀬さんと避けている部分を柳沢は知ってる、二人で話し合える。そこが違うんだ。

「うん、わかってる。なんだかやっと決心がついた。いままでずっと避けて来たからね。 どんな答えが返って来るかわからないけどちゃんと訊く」

 そう、この柳沢に感じる楽だって気持ち、私は村瀬さんにも感じたい。それには柳沢の言う通り、 もっと話さなきゃいけない。向き合わなきゃいけない。

「それでダメだったら俺んとこ来いよ。いつでも待ってる」

「ハハ、いいよ。でも美穂んち集合でね」

「うちで二人きりじゃないの?ま、それでも呼ばれないよりいっか。あ〜、何だか悔しいな。結衣、その服と靴の伝票、 値引きなしで村瀬さん宛に送るからって言っといて。結衣の居場所教えた代わりに売上に協力しろって。 安いもんだろ?」

 何言ってんの、これっぽっち売上が増えた所で雀の涙以下だよ。柳沢なら実力で目標以上も余裕でしょ。

「うん、言っとく。ありがとう、柳沢のおかげだね」

「バーカ、俺にはちゃんと下心があるんだよ。おっと、ヤバい、あれ、村瀬さんじゃない?」

 柳沢が顎で指す方に目を向ければ、今まさにタクシーから降りてあたりを見回してる村瀬さんの姿。 柳沢はオムライスの約束忘れるなよ、って言い残して大通りに足早に消えて行った。
 私はすぐ脇の横道で柳沢の後ろ姿を見送りながら深呼吸をした。決心がついたとはいえ、 何からどう訊いていいのかわからない。もしかしたら聞きたくない事もあるかもしれない。

 離婚した私が望んだ恋愛は、もっと平和で、ただ単に胸キュンドキドキ出来ればいいと思っていた。 でも、村瀬さんと恋愛するって決めた時点でそれは出来ないってわかってたはず。ううん、きっと三年前の事、 はっきりさせなきゃいけないって事なんだ。でなきゃこんな絶妙なタイミングでいろんなことが起こるはずないもんね。

 あ、もしかしてこれって試練の続き?いくつまでいっだっけ?6?7?


「結衣!」

 すぐに私を見つけた村瀬さんがこっちに向かってかけてくる。まずは逃げ出してごめんなさいって言わなきゃ。
 近づいてくるにつれだんだん表情がはっきり見えてくる。なんだか怒ってる?ちょっぴり怖い顔。 偶然とはいえ柳沢と一緒だったからだよね。

 そんな事を思っているうち、あっという間に私の前まで来た村瀬さんはホッとしたような息をひとつ吐いた。

「あ、あの…」

「結衣…」

 ごめんなさいって言おうとしたのに、急に抱き締められてそれは遮られた。

「またいなくなると思った…」

 そう呟きながら村瀬さんはギュッと力を込めて私を抱き締める。またいなくなる。前にも言ってたよね。
 胸に押し付けた耳からドックンドックンと少し早い鼓動が聞こえてきて、何故かこっちまでドキドキしてきた。 汗で湿っているワイシャツから村瀬さんの匂いがして、思い切り吸いこんだらなんだかホッとした。
 ときめきの実験でギュッてしてくれた卓也も、さっき不意に抱き寄せられた柳沢も、 どっちの腕の中も悪くはなかったけど、村瀬さんの腕には敵わない。それなのに、 めんどくさいって逃げ出した私って本当にバカだ。

「ごめん…なさい」

「結衣が謝ることじゃない。悪いのは多分俺。でも信じて、俺が好きなのは結衣だけだから。 結衣以外の誰でもない。だから、お願いだからいきなり逃げ出したりしないでくれ」

「うん、もう逃げない。だからごめんなさい」

 村瀬さんが腕を緩めて、私の顔を見ながら柳沢は?って聞いてきた。

「村瀬さんに殴られたくないから退散するって」

「ったく、あいつ…!」

 村瀬さんはちょっと怒ったように眉を寄せて、ふぅ〜って息を吐いた。

「怒るのはお門違いだな、むしろ感謝か。そう言えば結衣、その服Bella Caraだよね?」

 さすがだ、パッと見ただけでBella Caraってわかるんだ。

「あ、これ?靴が壊れちゃって柳沢が選んでくれたの。そのついでに服も。伝票は村瀬さん宛だって、割引なしで」

「貸し借り無しってわけか、仕方ないな。それより柳沢に何かされなかっただろうな?」

 ふんって鼻を鳴らす村瀬さんの目がちょっと怖い。キスされた事は黙っていた方がいいと判断した私は、 ご飯を奢って貰った事だけ言うと、村瀬さんはホッとしたような顔をした。

「しかしさすが柳沢だな、そのワンピース結衣に似合ってる。ミュールの色もいい。 俺からしたら柳沢が選んだってのは気に入らないけどね」

 そりゃそうだ、カリスマだもん。とりあえず的な服を着せるだけなら誰にだって出来る。それにせっかく買った服だもの、 自分に似合っている方絶対にいいし、買ったはいいけど一度も着ないなんてもったいない。

「でも村瀬さんに買ってもらった事になるでしょ?」

 まあね。なんて言いながら村瀬さんが笑った。でもその後すぐに真面目な顔になって何か言いたそうに私の顔を見てる。

「結衣」 「村瀬さん」

 二人同時に口を開いた。そして同時に首を傾げた。

「俺…」 「私…」

 また同じタイミングだったから二人で笑ってしまった。どちらかが譲らないと延々続きそうで、 私が村瀬さんに何?って聞き返した。

「結衣に…話さなきゃいけない事がある」

 躊躇いがちに言う村瀬さん。胸がドキドキした。ときめきのドキドキじゃなくて緊張のドキドキ。

「ん、私もね、村瀬さんに聞きたいことがあるの」

 ドキドキし過ぎて声がちょっぴり震えてしまう。こんな鼓動は心臓に悪いけど避けて通れないなら我慢しなきゃ。 村瀬さんは私がそう言うのを覚悟していたのか、うん、とだけ答えた。
 あ〜、ダメ。心臓が潰れそう。何を聞かされるのか正直怖い。 静まれ心臓!って深く吸い込んだ息が震えた。ああ、どうしよう。なんだか余計に苦しくなってきたその時、

「帰ろうか」

 そっと手を握られた。

「うん」

 その手を握り返すと、そこから村瀬さんを感じて少しだけ胸が楽になったような気がした。

「俺、もう結衣を逃がさないよ。だから俺を信じて」

 歩き出しながら村瀬さんが呟くように言った。
 これから話す内容の事を言ってるのだろうか?どんな話しをするつもりなんだろう?また胸がドキッとした。 でも、どんな事を聞かされようと私は聞くって決めたんだから大丈夫だと思う。 村瀬さんがしっかりとこの手を繋いでいてくれるなら、きっと大丈夫。

「うん、信じてる。でもね、もしまた私が逃げ出しそうになったら手を繋いでくれる?逃げ出さないように ギュッて繋いでいてくれる?」

「いいよ。いっそのこと鎖で体ごと縛っておこうか?一生逃げられないように」

 村瀬さんはふふって笑ってギュッと手に力を込める。私もギュッて握り返すと、 不思議とさっきまでの動悸がいつの間にか治まってる。

「体ごとってそれじゃ動けないじゃない」

「ハハ、そうだな。でも大丈夫、俺結衣の面倒見るの好きだから世話は全部してあげる。食事に着替え、そうだ風呂もだな。 なんだか楽しそう」

「なにそれ。下の世話が入ったら介護じゃん。私老人じゃないって」

「当り前だろ。結衣の下の世話の場合、そっちじゃないからな」

 そっちじゃないって…!!
 うっ、鎖に繋がれてあっちの下の世話ってなんだか変態チック?

「変な想像してる?」

「し、してない!」

「あ、そう。俺は想像したよ、そんな結衣の姿」

「す、姿って…変態!」

「変態?ってどんな想像したの?」

 ニヤって笑う村瀬さん。あんな事もこんな事もした仲で今更だけど思わず顔がカ〜ッと熱くなる。

「そんな結衣も俺だけのものだからな」

 いやいや、そんな私は誰だろうと見せられないでしょ。だいたい、そんな趣味はない。ううん、違う! そんな話をしてる場合じゃないって。肝心な話しをしなきゃなんだからね。

「大丈夫。こんな話しで誤魔化そうなんて思ってないよ」

 さすがエスパー、先に言われた。

「話しをする時間はたっぷりある。あ、うちでいい?」

 空車のタクシーに手をあげる村瀬さん。頷いた私を覗きこんでタクシーがすぐ前で止まる寸前に、 チュッと触れるだけのキスをした。

「今はこれで我慢」

 にこりと笑って、先にタクシーに乗るよう私の背中を押す。
 行き先を告げるとすぐに発進。手はずっと繋がれている。その手を見ていたら村瀬さんが一度緩めてすぐに指を絡めてきた。
 不思議だ。こうして手を繋いでいると言葉なんていらない。私はエスパーじゃないけど、 この手から村瀬さんの気持ちが伝わって来るような気がして、ついつい微笑んでしまう。

 そんな私を見て村瀬さんが何が可笑しいんだって。何でもないよって答えて、 ふと窓から外を眺めたらあのコーヒーショップが目に入り、あっ、と思い出す。

「そう言えば野間…さんはどうしたの?」

 ついつい呼び捨てにしそうになって慌ててさんを付けた。

「知らね。ホテルに帰ったんじゃない?」

 村瀬さんはふんと鼻を鳴らしてちょっとだけ眉を寄せた。

「え、放置してきたの?」

 そう尋ねた私に村瀬さんが驚いた顔を向けた。

「結衣を放置出来ないだろ。あいつの事なんかより結衣を探す方が先。なに、放置しちゃまずかった?」

 子供じゃないんだから放置したってどうってことないでしょ。だって野間だし。 私だって逃げ出したけど、最終的には家に帰るしかないもの。

「全然まずくない」

 ぶんぶんと首を振ると、村瀬さんは繋いだ手を離して私の肩を抱き寄せた。 私は何も言わない村瀬さんの肩に頭を寄せそっと瞼を閉じる。

 何を聞いても大丈夫。
 村瀬さんの手から伝わる温もりが、私にそう思わせてくれる。

 






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