3 正反対の男
『村瀬さんを忘れるために結婚したんだろ。』
卓也の言ったことはあながち嘘ではありません。
もちろん元旦那様が好きだから結婚したんですが、好きは好きでも愛や恋とはちょっと違っただけです。
だけど、何かも普通の元旦那様を選んだのは、村瀬さんとまるで正反対のタイプだったからです。
元旦那様なら私を傷つけることはないとどこかで思ってたんでしょうね。
まあ、さほど傷つきはしなかったけど、結果は離婚ですが。
村瀬さんは同じ部署の二年先輩でした。
そもそも私が今担当している店舗は元々彼の担当でした。もっとも彼は私の倍の担当店舗を抱えていましたが。
仕事柄いつもスーツをびしっと決めて、センスも良ければそこそこ仕事も出来る、その上まあまあ顔も良いとなれば、
モテないわけがありません。
社内、社外問わず、噂になった女性は少なくありませんが、真実のほどはわかりません。
同じフロアとは言え、入社したばかりの私の配属は別で、村瀬さんのことは知っていましたが、全くの蚊帳の外の
傍観人で、仕事が出来ていい男だからって何?くらいにしか思っていませんでした。
転機が訪れたのは入社三年目です。
私の所属していたマーケティング部が営業部に統合されることになり、私は村瀬さんの補佐として彼の下に行きました。
村瀬さんのことを好きになったのはそれからです。
毎日近くで仕事をするうちに、彼が好きになってしまったのです。
あわよくば彼の彼女に、なんてミーハーと一緒にしないでください。本当に恋していたんです。
厳しいけど、右も左もわからない私に丁寧に教えてくれました。
同じ失敗をすると凄く怒られたけど、きちんと出来た時には大袈裟なくらい褒めてくれました。
新しい仕事に慣れるに従って、私に店舗を任せてくれるようになって自信もつきました。
今の私があるのは村瀬さんのおかげと言っても過言ではありません。
それだけ毎日彼の傍にいたから、ミーハー女子より彼のことは理解しているつもりでした。
噂では何人も付合った女性がいるように言われていたけど、どうやらプレイボーイではなさそうです。
女性からのお誘いを受けるのはしょっちゅうだったけど、ほぼ100パーセント断っていました。
なれなれしく話しかけてくるミーハー達とも、きちんと一線を引いて接していたのを私は知ってます。
きっと彼は一人の人を大事にするんだって感じました。
でも、それは恋する故の勝手な願望だったのかもしれませんね。
村瀬さんと一緒に仕事をしたのは約一年半です。
私の気持ちを知った上で、私の心を見事に踏みにじり、優秀な彼は研修と称した栄転で、
イタリアの本社に行ってしまいました。
卓也の言ったとおり、翌日部長から村瀬さんが戻ってくると聞かされた。
もちろん新ブランドの担当は課長に昇進した村瀬さん。
そしてついでに私も部長に言われた。私はまたまた村瀬さんの補佐役になれと。
はぁ?なんですって!?
私は辞令を受けたその足で卓也を呼び出し休憩室へ直行。
なんだかこの事態を予測していていたのか、卓也は平然とした態度でタバコをふかしてる。
「なんで?なんで私?しかもよ、今の仕事と並行してやれってどういうこと!?」
そう、私は怒ってました。こんな偶然があってたまるもんですか!
しかも、今の担当そのままに更に仕事が増えるわけで、これじゃあ夢の胸キュンなんかする暇ない!!
「しかも卓也、あんた知ってたわけ?全然驚いてない」
「あ?だっておまえんとこの部長がそんな話してるの聞いたから」
「だったら私の耳に入れてよ〜」
「知らない方がいい事もあるだろ?でも面白そうじゃん。新しいブランドだぜ。しかも村瀬さん31歳で課長だし
凄くね?俺の二年後なんて今と同じ平がいいとこ」
「卓也はそうでも私は面白くも何ともないし、村瀬さんが課長になろうが卓也が平だろうが知ったこっちゃないわよ」
「またまたぁ、素直じゃないな、村瀬さんに会うのが怖いんだろ?」
「違う!!」
多分、私の顔はゆでダコのように真っ赤だったと思う。
あ、図星だからじゃなくて、怒ってです。
またもニヤニヤしてる卓也に私は大きな大きな溜息を吐いた。
部長の話によると、村瀬さんはひと月前に帰国してたらしい。
社にこそ出てきてないが、新ブランドの為に既に一人で店舗候補を見て回ったりしているみたい。
村瀬さんの出社は来週から。
う〜、正直私は気が重い。
卓也の言う通り、私は村瀬さんに会うのが怖い。
だって普通そうだよね、こっぴどくフラれた相手に会うのって勇気がいる。
ああ、でも今はそんなことを考えてる暇はない。
溜まった仕事を少しでも減らして、月曜日からの負担を減らさなきゃ。
明日は月一回の店長会議もあるんだから、資料のコピーもしなくちゃだよ。
時計を見ればもうすぐ5時。だから今日は残業覚悟。あ〜あ、やっぱり胸キュンは程遠いかな。
◇ ◇ ◇ ◇
やけにオフィスが静かで、気付いたら私一人しかいなかった。
時計を見たら8時じゃない。昼間は感じないけど、夜に一人でいるオフィスって意外と怖い。
これだけやったらさっさと帰ろうと、私は
コピー機の前でフゥと大きな溜息を吐いて、リズムよく出てくる用紙を何も考えずぼーっと眺めてた。
そんな時に、いきなり真後ろからポンと肩を叩かれたら驚くのは当たり前で、肩を叩いたのが誰かも確認せずに私は
断末魔の如く叫び声をあげた。
「ぎゃ、ぎゃあああぁぁぁぁぁぁああああああ!!!!!」
と、思ったら、実は最初の『ぎゃ』で、私の口は肩を叩いた主に塞がれていた。
何がなんだか、後から伸びた手に急に口を塞がれ、私は軽くパニック状態。自然と足をじたばたさせてたら、
聞き覚えのある声にピタリ体が止まった。
「安藤、俺だよ、俺」
ちょっと、待って。まだ心の準備が出来てない。
恐る恐る首をゆっくり後ろ斜め上に回したら、やっぱりそうだ、私の口を塞いでいたのは村瀬涼だった。
なんで?どうしているの?何してるの?
聞きたいけど口が塞がれてしゃべれない。ついでに鼻まで塞がれて苦しくなった私がまたじたばた始めると、村瀬さんは
ごめん、と言って手を離してくれた。
「ハァ、ハァ…苦しいじゃないですか!」
意外と普通に喋れてる自分に驚いた。まあ、こんな恐怖の前じゃ会うのが怖い気持ちなんて
吹っ飛んじゃったのかもしれない。
「仕方ないだろ。あそこでおまえが叫んだら速攻でガードマンが来て、俺は不審者扱いされる」
はい、その通りです。
ちょっとだけ反省しながら村瀬さんの顔を見たら、相変わらずのいい男。
まあまあのいい顔は変わらないけど、三年前より少しだけ大人の男な雰囲気を漂わせ、
やっぱりびしっとスーツは決まってる。
「専務に呼ばれて夕方から来てたんだ。帰ろうと思ってここを通ったら電気がついてたから、懐かしくて覗いてみたら
おまえがいて声をかけたんだ」
だからって驚かせないでください。そう言ったら村瀬さんはクスッとだけ笑って、コピー機から資料を取って
見てる。
「へぇ、安藤の担当店舗、なかなかいい成績だな」
村瀬さんはそう言って私の顔を見ると、何か思い出したような顔をした。
「そうか、今は安藤じゃないんだよな」
そしてそのまま視線を、私が首から下げている社員証に移して、ん?と眉を寄せた。
そう、彼は社員証の私の名前が安藤結衣ってなってるのを見たの。咄嗟に私は社員証を掴むと、まるで言い訳
するように村瀬さんにしゃべってた。
「結婚してもずっと旧姓で通してたの。だっていちいち訂正するの面倒だし!あ、でもまた安藤に戻ったから
結果オーライなんだけど!」
何言ってんだか私。敬語もすっかりどこへやら。
でも、一瞬、村瀬さんが薄っすらと笑ったのを見てしまった。
イヤな予感に思わず背中がゾクっとした。
「戻った?――つまり、離婚?」
コクンと頷いたら、村瀬さんは今度はニヤって笑った。
「そうなんだ…じゃあ今から俺が食事に誘っても問題ないな、――結衣?」
『結衣』って、なんでそこだけ色っぽく囁くんだ!!意志とは裏腹にドキドキしちゃう。
でも私のこのドキドキは望んでたドキドキなんかじゃなくて、これから何が起こるか分からない恐怖のドキドキ。
こんなドキドキしたくない!
「え、え?えっと…いや、村瀬さんと食事だなんてとんでもない……。あー、今は村瀬課長でしたね?アハハ……」
なに笑ってごまかしてるんだ、私!はっきり断れ、一緒に食事なんかしないって。
「なに遠慮してる?いつも一緒に食事してたじゃないか。それに村瀬課長なんてやめてくれ、あー、そうだ、
いつかみたいに、甘えた声で涼って呼んでくれてもかまわないけど?」
「………!!!!!」
だから言ったはずです、彼が誠実だと思ったのは大いに恋する故の願望だと。
ご察しの通り、私は三年前に村瀬さんに一度だけ食われました。
いいえ、食われたというのは間違いで、その時私は勝手に両想いだと勘違いしていたので、あくまでも合意の上で
のセックスです。
あ、でも決して付き合っていたわけではありません。付き合う前に終わってしまいました。
村瀬さんに抱かれた日は、夢のように幸せで、その数時間後にまさかそんな想いが粉々にされるとは思っても
いませんでした。
結局、村瀬さんは、私の気持ちを利用して私を頂いちゃったわけです。
だから私は、仕事が出来てびしっとスーツを決め込んだ、かっこいいモテ男とは全く正反対の、
何もかもいたって普通の元旦那様を選んだんです。
だって、村瀬さんが好きで好きで、いいように食われちゃっても、それでも大大大好きだったから……
だから…早く彼を忘れたかったんです。
でも……、人それぞれ普通の基準が違うのか、私が普通だと思った元旦那様は外見だけ普通で、中身は私にとってはちっとも
普通じゃありませんでした。
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