23 訂正と恋愛の間 その1




 今、なんておっしゃいました?

 パニクった頭ですぐに理解なんか出来ない。だから私の頭上にはハテナマークが浮かび上がっていたに違いない。 だって、見下ろす村瀬さんの顔がみるみる呆れ顔に変わって行くんだもん。

「おまえさ、いい加減俺の気持ちに気付いたら?」

 それは無理でしょ、だって自分の気持ちだってよくわからないのに、他人の気持ちなんてわかるはずない。
 それに、村瀬さんのあの態度は、おまえなんかもう嫌いだ、近寄るな、だし。

 はぁ〜あ、と村瀬さんは長い溜息いを吐いて、隣にごろんと仰向けに倒れて込んだ。

「結衣、もう少し男心を理解しようよ」

 そんな事言われても…わかんないよ。
 理解してたら離婚は避けられたかもね。別に離婚した事は後悔してないけど。 いいえ、それこそ村瀬さんの方こそもう少し女心を理解してよ!

「って、悪いのは俺か。誤解するような言い方したの俺だもんな」

 あー、もう、理解してとか俺が悪いとか誤解とか、いまいちよくわかんないんですけど。

「あ、あのですね、村瀬さん?ごめんなさい、いまいちこの状況を理解してない上にいろいろ言われても…」

 上半身をひょいと起こして、今度は私が村瀬さんを見下ろす。

「えーっと、あのぉ、非常に聞きにくいんですけど…もしかして……しちゃいました?」

 私の問いに、村瀬さんが呆れた顔を見せる。

「まさか。我慢は強いられたけど。自分でわからないの?」

「だ、だって…こんなカッコ、だし?」

 そうよそうよ、私ったらTシャツ一枚にパンツ一丁。当然、村瀬さんが着せたんだろうしそう思うじゃない。

「雨に濡れた服で寝かせるわけにはいかないだろ?それ、この間洗濯したTシャツ。 気持ち良さそうに熟睡してるし、下は脱がせるだけで精一杯」

 な、なるほど、かろうじて一枚は残したって意味ね。

「あ、あのぉ、で、どうして私はここに?」

「マスターが連絡くれたんだよ、 タクシー呼ぼうとしたけど、結衣が寝ちゃって起きそうにないって。俺がどれだけ焦ったか知らないだろ、マスターに感謝だぞ。 下手したらおまえ、今頃知らない誰かの家かもしれない」

 アハハ…痛いお言葉。前回の柳沢の時に充分反省したんだけど…
 笑いが引き攣る。でもいくら熟睡してるとはいえ、お酒を飲んでないのにそれってあり得ない。

「あ、あのぉ、起きなかったのかな?そのぉ、私は…」

「俺は起きてると思ってた、寝ぼけてはいたけど。でも俺を認識してるから、 俺んちでいいか確認してから連れて来たんだけど、覚えてない?」

 確認したって、それって合意ってことじゃない。とほほ…情けない、それすら覚えてない。 しかもノンアルコール状態で、どんだけ深い眠りについてたのかしら?

「そ、それはそれは大変な世話とご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。誓ってお酒は一滴も飲んでませんし、 今後一切、飲まないって先日誓いました。今ここで、今後は寄り道もしないって誓いますので、 村瀬さんのお手を煩わせる事は二度とないと思います!なので、今回はこれでお許しいただけると…」

 きちんと正座をして三つ指揃えて頭を下げた。だって昨日からお世話のかけっぱなしで申しわけない。 それに、これ以上村瀬さんに呆れられて、そっぽ向かれるのも哀しいし。

 頭を下げたままで視線だけ村瀬さんに向けたら、ふ〜ん、て顔してる。

「そんな誓いを立てちゃうんだ。つまらないな。俺、結衣の面倒見るの好きなんだけど」

 あ、あのね、面倒って、とっくに最後まで面倒みたじゃん。
 というか、今はそんな話じゃないでしょ!
 今ここで村瀬さんを睨むのはお門違いとわかりつつ、私は頭を上げて軽く睨んだ。

「変な意味にとるなよ。結衣を見てるとついつい世話を焼きたくなるってことだから。 今だから言うけど、結衣が補佐になった当初は、ドジるたびに俺を頼ってきて正直めんどくさいって思ってた。 だけどこの頼られるってのが意外にも俺のツボにドンピシャはまったみたいで、 いつの間にかそんな結衣が可愛いくて、手を貸したくなって、 この間も言ったけど、結衣をかまいたくて、それがいつか独り占めしたくなった。 だから帰国して最初に会った夜、離婚したって聞いてこの機会を逃す馬鹿はいない、先手必勝だぞって、 ついつい俺の女になれなんて言っちゃってさ」

 え、面倒って、そうい意味じゃないってこと?そんでもって先手必勝?

 話の内容を理解できない。村瀬さんは体を起こして、きょとんとする私の顔を覗き込んでくる。その顔がとっても近くて、 じっと私の瞳を見つめて、疑問なんか一瞬のうちに忘れて、私はついつい見惚れてしまう。

「結衣…」

 村瀬さんはさらに顔を近づけてくる。ヤ、ヤバいでしょ、こんなドアップ! 昨日の今日でまた生理現象起こしたらどうすんのよ。しかも村瀬さんたら、体にぴったりのシャツ着てるし。
 このシチュエーションで、こんな近くで見つめられたら、それも好きな人相手に平気でいられる女がいる? だって、だってさ、そのシャツの下にある、村瀬さんの体を私は知ってるんだもん。触れたくなるじゃない。

 思わずギュッと目を閉じた。見なきゃいいんだ。視覚でやられるなら封じるべし。
 それなのに、村瀬さんはそんな私の努力を知ってか知らずか、私の顎に手をかけて顔を上げさせる。
 あ〜〜っ、触らないで、触覚はどうにも出来ない。まさかその部分だけ麻痺させるなんて技は当然持ち合わせてない。 もうこうなったら理性との戦い。

「目を開けて」

「ダ、ダメ、見ない」

「なんで?」

「なんでも…!」

 もっともっと固く目を瞑ったら、村瀬さんが喉の奥を鳴らして笑う。

「そんなにキスして欲しいの?」

 キ、キス?!
 もっとダメでしょ!!間違いなく理性なんかぶっ飛んじゃうって!

「も、もっとダメだって!!」

 視覚封印なんて忘れ去って思いっきり目を開けてしまった。もちろん目の前はドアップ村瀬。 しかもさっきより近い。鼻と鼻がぶつかりそうなんですけど…!
 そうだ、再び視覚封印だ。だけどこの距離で瞳を覗きこまれると、何故か瞼を閉じる事が出来ない。

「目を開けたのはいいけどキスはして欲しくないんだ?」

 な、なんて質問をするんだ、これ以上いじめないでよ。して欲しいに決まってるじゃん。 でも、言えないでしょ、そんな事!

「俺はしたいな、それ以上も。三年ぶりに結衣に会って確信した、やっぱり結衣が好きだって」

「・・・・・・・・」

 今なんておっしゃいました?
 あ、あれ、またまたデジャヴ?最初のシーンに戻った?

 さっきから何度もハテナマークを浮かべる私に村瀬さんは呆れ顔、しかもドアップのままで。

「あのさ、前から思ってたけど、おまえわざと俺の告白を拒否ってる?」

 拒否?
 してるつもりはさらさらないですが…だって好きなんだし。
 でも、でも、村瀬さんが私を好き?まさか?本当に?
 ん…?あ、あれ?あれれれれれ?

「う、うそっ」

「ほんと」

「だって、私のこと嫌いでしょ?」

「ちょっと違う。嫌いになろうと努力をした。でも嫌いになれなかった、それ以上に結衣が好きだから、 嫌いになんかなれるはずない。だから俺だけを見て欲しい。俺には結衣だけだから、ずっと結衣と一緒にいたい」

 村瀬さんが熱い眼差しで私を見つめる。ずっと一緒に居たいと言われ、胸が高鳴った。
 嫌われてなかったんだと、嬉しくて嬉しくて、何度も何度も頷いた。私も村瀬さんが大好きだと。

 村瀬さんの唇が私の唇に重ねられた。途端に鼓動がドキドキと早まって、胸がキューンと締め付けられる。
 村瀬さん抱き寄せられ、彼の胸に耳を寄せると、同じように村瀬さんの早い鼓動が聞こえてきた。 何か大事なことを忘れているような気がしつつ、ああ、これが私がしたかった恋愛のドキドキなんだと、 村瀬さんにきちんと自分の気持ちも伝えなければと思った瞬間、忘れていた大事なことを思い出してしまった。

「ダ、ダメ!」

 もがきながら村瀬さんの体から離れた。驚いた目で村瀬さんが私を見ている。

「ダ、ダメなの」

「何が?」

「わ、私…私……も、もう恋愛しないって決めたの」

 そうよ、忘れてた大事なこと。もう恋愛はしないって訂正したのよ。ついさっきまで忘れてたけど、 無意識に告白を拒否していたのはきっとこの訂正のせいね。

「それって結婚じゃなかった?」

「恋愛も…追加したの」

「枯れたくないんじゃないの?」

「それでも…恋愛しないの」

 村瀬さんがなんだそれって顔してる。そして急速に不機嫌そうな顔つきで、 自分の前髪をクシャっとかきあげた。

「おまえさ……」

 そこまで言って村瀬さんは言葉をぐっと飲み込んだ。あ、あ、もしかして私ったらまた捨てた女になってる?
 あー、もうわけわかんない。あの訂正は間違いだったとか?ちょっと、何を躊躇してるの私。 好きなら素直に受け取ればいいんだよね?あれ?なんでだろ?どうにも訂正が引っかかる。 今更訂正の訂正なんてダメだよって。

 ひとりでまたもイッツァパニックな私を見ながら、村瀬さんはこれ以上話しても無駄だと思ったのか、 諦めた様子で小さな溜息を吐いた。

「話は後。結衣、シャワー浴びておいで」



◇  ◇  ◇





 シャワーを浴びて浴室から出たら、きちんと折り畳まれた服が置いてあった。以前来た時に洗濯された私の服。 ちゃんと下着も揃ってる。Tシャツだけは村瀬さんのだ。よっぽど私は寝像が悪いのね、 着替えさせてくれた私のTシャツは一晩でよれよれ。

 そう言えば昨日着てた服はどうしたんだろう?あー、村瀬さんの事だ、きっとまた洗濯機の中よね。 そう思って洗濯機を見たらもう回ってる。やること早っ。

 キッチンに行けばいい匂いがして、私好みの食器に盛られたホットサンドとサラダ。ま、私が選んだんだもん、 私好みに決まってるんだけど。

 人生二度目の村瀬さんが作った朝食。今日はインスタントのスープだけど、一人暮らしの私だって愛用してるし美味しい。 もちろん、ホットサンドにはとろ〜りチーズ、美味しくないわけがない。

 食事中、あんまり会話がなくてちょっぴり気まずい雰囲気だったけど、 やっぱりここでは上げ膳据え膳の私。食器洗いを終えた村瀬さんに湿布を貼り換えようと言われ、今、 ソファに二人並んで座っている。

「腫れは引いてるな。どう、まだ痛む?」

 村瀬さんが湿布片手に私の腕をまじまじ観察する。昨夜湿布を換えてくれたお礼と、年寄りじゃあるまいし、 前に来た時と同じでまだ物が揃ってない家によく湿布があったねと尋ねたら、 私を寝かせた後に近所のコンビニまで買いに行ったって。

 前回、心地い風が入ってきていた窓は今日は雨で閉まっている。この雨の中、 二度も村瀬さんに手間をかけさせたのかと思うとやっぱり申し訳なく思ってしまう。
 そんな事を思いながら、丁寧に湿布を貼ってる村瀬さんを見てたら、いきなり頭をあげて、何が?って顔。

「だから結衣の面倒見るのが好きだって言っただろ。それにこのケガは俺が忘れたせいだし、これくらい当然

 うん、村瀬さんは間違いなくエスパーだ。きっと私の顔にそう書いてあったんだと思うけど、 こうして村瀬さんはすぐに答えてくれるからエスパー。すぐに私の気持ちを楽にしてくれる。

「あ、村瀬さんこそ私の下敷きで大丈夫でした?」

 今頃思い出して訊けば、全然大丈夫だよって湿布をしまいながら笑ってる。 だから私もホッとして、よかったぁ〜って言ったら、村瀬さんが私を見たの。

「理性の方は大丈夫じゃなかったけどね」

「????」

 りせい?リセイ?Risei?りせいって何?体のどこかにそんな名称の部位などあったかしら?
 もしかして頭でも打ったのかしら?こんな簡単な単語の意味がわからない。だけどそこはエスパー村瀬、クスクスって笑いながら、 私に理解できるように話の続きを始めた。

「結衣のあの顔を見た時、正直ヤバいって思った。自分を抑えるのに精いっぱい」

 りせいって理性!
 理解した途端、恥ずかしくて顔が熱くなった。だって試練その5のこと言ってるんだよね。 しかもこのシチュエーションで思い出したけど、確か私ったら村瀬さんに暫く生理現象は起こさないって宣言しなかった? それもこのソファで!

 何が可笑しいのか、村瀬さんはそんな私を見て笑いを堪えてる。そして言ったの。

「コーヒーでも飲む?もちろん、あのカップでね」

 う、うぅぅぅ!村瀬さんたら、私のツボにハマってるだけじゃなくて、私のツボも心得てる?! そんなまったりタイムを過ごしたら、訂正なんかどこか吹き飛んじゃうじゃないのよ……!!
 






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