19 悪夢克服?
二、三日もすると『安藤』にもだいぶ慣れてきた。村瀬さんは相変わらずお仕事モード以外で私に接する事はない。
当り前だけど。
誤解の大元、柳沢はほとんどオフィスにいない。
川田さんと行動を共にしているようで、昨日の朝にちょっと話をしたきり。
「あれ?結衣どうしたの?風邪でもひいた?」
昨日、毎晩例の夢に悩まされてる私の顔を見た柳沢の言葉。
オフィスでは安藤って呼べって言ったのに、平気で、しかも村瀬さんの目の前で結衣って呼ぶ柳沢がちょっと憎たらしい。
村瀬さんは村瀬さんで、柳沢に纏わりつかれてる私なんかまるで気にする様子もなく、目の前で黙々仕事してた。
柳沢が、私とのランチを村瀬さんが邪魔してたって言うのが本当なら、これはもう完全に私の事は眼中にないって事。
でも、失恋を受け止めた私にはもうどうってことない。もしかして試練はその3がピークだったのかもしれない。
だいぶ気持ちは落ち着いてきて、今、目の前で受話器片手に笑いながら、
どこかの誰かと電話している村瀬さんを見ても何ともない。
見てる場合じゃないね、仕事しよ。
デスク上の資料に目をやった時、向いのデスクから腕が伸びてきてびっくり。
なんだと思って顔を上げたら、村瀬さんが電話で話しながら私が今見ていた資料を指差してる。
あ、これが欲しいのかと、伸びてきてる手に渡したら、ありがとうって口だけ動かしてほんのちょっと私に笑いかけた。
う、うわっ、『安藤』以来、限りなくゼロだった私に向けられる笑顔。それが今、
ほんのちょっとだけど笑ったよね?
というか、笑いながら電話してただけなんだけど。
これって試練その4なのかな?もう私に向けられる事のない笑顔を思うと寂しいな……
でも、私ったら自分の事ばかりで、よ〜く考えたら、村瀬さんだってこうして嫌な女の顔を毎日見なきゃいけないんだ。
しかも部下で補佐で、その上デスクまで向い合わせ。まったくもって気の毒。誰がそんな女に笑いかけるかっての。
はぁ〜あ。気のせいかどんどん卑屈になってない?
いけない、いけない。一度背筋を伸ばして首を左右にストレッチ。何気に時計を見ればもうすぐ4時。
後もうちょっとと自分に言い聞かせ、気分転換にコーヒーでもと小銭を持って席を立った。
オフィスを出ると、通路のずっと先に柳沢を発見。向こうも私に気付いて軽く手を振ってる。
振り返すのもなんだし、私は軽く手をあげるに留めたら、柳沢が卓也がするサインと同じ仕草をした。
腕時計を指してから、今度は休憩室の方向に向かって指をさす。
何で知ってるの?まさかね。まあ、サインだとしても私の行き先は休憩室の自販機。言われなくても行くつもりだから、
あえて返事はせずに休憩室に入ったら、間もなく柳沢も入って来た。
「へぇ、この暗号本当だったんだ」
自販機にコインを入れていた私は、くるり後方の柳沢に振り返った。
「なんで知ってるの?」
「長谷川に教えてもらったから」
「えっ、卓也?って、あんた達いつの間に?」
「だって同期だし。結衣の友達は俺の友達。長谷川って中国語がぺらぺらなんだってね。今度教えてもらうんだ、
ほら、最近中国人のお客さん多いからさ」
卓也ったらそんな事一言も聞いてないぞ。しかもなんだか仲良しになってない?ふ〜ん、
そんなに気が合う二人とは思わないけどねぇ。
って、ちょっと待った!
「ま、まさか柳沢、この間の事卓也に言ってないでしょうね?」
「え、泊った事なら言ってないけど」
良かった〜、卓也に知られたくないもんね。もっとも一番知られたくない人には知られちゃってるけど。
ホッとして、自販機に向き直し目的のコーヒーのボタンを押した。ガッチャンと缶が落ちる音がして、
屈んだ瞬間柳沢が口を開いた。
「あ、下痢なんだって?コーヒーなんか飲んでいいの?」
卓也〜、余計なこと言うな、余計なことを!しかも下痢じゃない!!
コーヒーを掴んでクルッと振り返ったら、柳沢がニヤってしてる。
「下痢かぁ、でもさ、その暗〜い顔の原因って下痢じゃないよね。隠しても無駄。でもつまらないよなぁ、
村瀬さんライバルから降りちゃったみたいだし」
な、なんでわかる?!思いっきりびっくり眼な私に、柳沢はまたニヤって笑ったの。
「村瀬さんの態度見てればわかるって。俺が結衣に近づいても知らん顔だし、結衣は結衣で暗い顔してるし。
だからさ俺にしておきなよ、ね、結衣」
「あ、あ、あのね、柳沢!」
「ね、やっぱり原因は俺?」
嬉しそうに聞くな。確かに原因の一端を担ってはいるけど、根源は私だから。
「あのね、私はもう誰とも恋愛しないの」
「それって結婚じゃなかった?」
「結婚も、恋愛もってこと」
「ふ〜ん、俺が結婚しようとか言ったから?じゃ、結婚なんかしなくていいから俺と恋愛しよ。
別に結婚なんかしなくっても結衣がいればいいし」
あのねぇ…、マジで諦めないヤツだなぁ。
「残念ながら柳沢に、恋しても愛してもないんだよね」
「今はね。でも諦めないのが俺。ずっと待ってるから。例え結衣の心が他にあろうが、傍にいてくれるならそれでいい。
だって俺の心は結衣のもの」
心がなくてもって…
「だから、何があったか知らないけど、誰かさんみたいにすぐ降りたりなんかしないからさ、
いつでも俺の所に来ていいよ」
これって愛されちゃってるのかな。ちょっと違う気もするけど。
つーか、柳沢の恋愛観って私には理解できない。
「あのねぇ、聞くけど、柳沢って嫉妬とかしないの?心が他にあるって切なくない?しかもそれでも待ってるって」
当り前の質問だけどなんて答えるんだろう?いつか振り向いてくれるかもしれないって、待ってるなんて私には出来ない。
「そりゃ切ないよ」
柳沢がちょっとだけ首を傾げて素のにっこりで笑った。
「でもさ、ジタバタしたって仕方ないじゃん。諦めたらそこで終わっちゃうし。そして気持ちは言わなきゃ伝わらない。
だからしつこいくらい伝えて待てる限りは待つんだ」
柳沢にしてはまともな答え。でも、その寂しさを埋めるのが別なのは問題だけど。まあ、
お互い割り切ってるなら、それでもいいのかもしれないけど。
「で、結衣は今ジタバタしてるんだよね。だから待つのをやめられないんだ」
「し、してないって」
「してないの?なんだ、忘れるために俺と付き合うのを期待してるのに」
「そんなことしないよ」
「そう?だって村瀬さんを忘れるために結婚したんだよね。だから今度は俺と結婚するかなって」
な、な、な、なんでそれを知ってるの!?
これ以上開かないだろうってくらい、見開いた目を柳沢に向けた。
「た、卓也が言ったの?!」
柳沢がゆっくり首を左右に振った。
「結衣」
「…………」
何よ、私ったら元旦那様の背中どころかそんな事まで喋っちゃったの?まさかまさかもっと余計な事は言ってないよね?
もう自己嫌悪なんでもんじゃない、それ以上だ。本当にお酒はもうやめよう。飲まれてばかりだもの。そんなことより、
私はどこまで話してしまったのか確認しなきゃ。でも今は無理だ、いつまでもここでサボってもいられない。
「だから…それは間違いだったって認めてるでしょ。もう戻るからね」
柳沢に背中を向けたらクスクスって笑ってる。何が可笑しいのかわかんない。ふん、て鼻を鳴らして速足で歩きだしたら、
これから村瀬さんと打合せだからって付いて来る。
後ろに柳沢を従えてオフィスに入ったら、村瀬さんがチラッとだけ私を見てすぐに柳沢の方に視線を移した。
柳沢は私を追い越し村瀬さんの所に行って、すぐに二人してにこやかに会話してる。
なんだか変な感じ。原因の一端を担ってるはずの柳沢とは笑って話せるんだ。どうしてって考えるのはやめよう。
虚しくなるだけのような気がするから。
私がデスクにつくと同時に、村瀬さんと柳沢はミーティングルームに入って行った。
はぁ、せっかく買ってきたコーヒーも飲む気がしなくてデスクの端に置いた。
そしてさっさと仕事を終わらせて、今日は定時で帰ろうって決めた。
◇ ◇ ◇
この翌日からまた柳沢の定位置がミーティングルームになった。相変わらず平気で結衣って呼んでる。
でも、二日かけてよくよくヤツの行動を観察していたら、毎日更新でターゲットにしてた柳沢派の皆さんのことを○○ちゃん、
とか○○っち、とか名前で呼んでた。
どうりで睨まれなかったはず。下の名前で呼ぶのが柳沢流なのね。でも、
まさかこの中にワンナイトラバーはいないでしょうね?
そして私は、ここ二日ばかり例の夢を見ていない。これって克服出来たのかしら?
おかげで寝不足もかなり解消、お肌も元に戻りつつある。
今朝、卓也が私の顔を見て、やっと下痢が治ったか。なんて言ってたけど、訂正して本当の理由を言うのもなんだから、
ずっと下痢だった事にしておいた。
さすがに二度目の失恋となると、立ち直りも早いのかもしれない。
だからと言って、もう村瀬さんが好きじゃないのかと言えばそうじゃない。ただ、無理に忘れるために他の男を、
とはこれっぽっちも思ってない。うん、進歩してるじゃないの私ったら。
ふと、村瀬さんはどういうつもりで俺の女にって言ったのか気にはなるけど、真実を知る術もなければ今更だし、
今現在村瀬さんにその気はなくなったって事で自己完結させるしかない。
ミーティングルームでは、村瀬さん、柳沢、もう一人の店長山本さん、卓也、プレス担当の広報の人と朝から会議中。
名ばかり補佐の私は用無しで、只今この前整理した備品倉庫で格闘中。
それは30分ほど前の事、川田さんが小脇に箱を抱え私の元にやって来ていわく、
昨日倉庫にその箱を探しに行ったが見つけられず、村瀬さんに確認したところ分かりずらい所にしまったから、
今朝一番で倉庫から出してくると約束したはずが、どうやらすっかり忘れられていると。
「ったく、あいつが忘れるなんて珍しいよな。ま、忙しいから仕方ないんだろうけど」
確かに村瀬さんは忙しい。毎日残業で遅いみたいだし。
「それと同じ箱ですよね。私知ってますよ」
はっきり見覚えのある箱。大きな段ボールにまとめて入れたのは私だから記憶にある。
場所を教えてくれれば取りに行くと言う川田さんに、部長からお声がかかって代わりに私が取りに来ているわけ。
それにしても村瀬さん、何もこんな上の段の、しかも奥にしまい込まなくてもいいじゃない。
ほんと、これじゃわからないよ。
とっても目立つマークのついた段ボールにしまったから見つけられたけど、出すまでに一苦労じゃない。
20分かけて、手前の荷物をどけてやっと全貌を現した段ボール。
重くはないから一人でどうにかなるのに、この奥まで手が届かない。さてどうしよう?
ちょっと休憩がてら考えて、これしかないとパンプスを脱いで棚の下から一段目、高さは6〜70センチってところかしら?
そこに足をかけた。
ほらね、背が高くなった分手はなんとかギリギリ届く。後は引っ張り出せばいいだけ。
ところがちょっと甘かった。いくら軽いと言っても、指先だけで引っ張り出そうなんて無理があったみたい。
諦めて川田さんを呼びに行こうと、でも最後にもう一度だけチャレンジしてみようとした時だ。
「安藤?」
ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと、誰よ、急に声かけないでびっくりするじゃない!なんて思ってる場合じゃなかった。
ストッキングで足が滑って、思いっきり体のバランスを崩してる私。気のせいか体が宙に浮いてる?
しかも目に映る倉庫の景色はスローモーション。いいえ、コマ送り?
あら、あれは天井?
あちゃー、私ったらもしかして背中から落ちてる?げっ、落ちてる!!
衝撃に備え目を瞑った。途端、コマ送りから一気に早送りへ。そしてすぐにドッスンって背中に衝撃を受けた。
「……っ!!いった〜……くない?」
あれ、痛くない?ま、まさかたった70センチの高さから落ちて死んだ?あ、あり得ないよね?
でも、怖くて目を開けられない。だって、どうする?ぷかぷか浮いてる自分が、
倒れて死んでる自分を見てしまったら。
「・・・・・・」
それにしても背中に何か感触がある。つまりぷかぷか浮いてはいないって事だよね。
だから思い切って目を開いた。
「大丈夫か!?」
心臓がぶっ飛びそうなくらい驚いた。
だって、目の前にはドアップで、心配そうに上から顔を覗きこむ村瀬さんの顔。
え?何故上から見てるの?
「・・・・・・」
「……結衣?」
「・・・・・・」
「安藤?おい、わかってる?」
あ……もしかして、さっき結衣って言った?
寸前の所で私は村瀬さんの胸に受け止められたようです。その上、村瀬さんをクッションにして倒れていました。
どうりで痛くないはずです。
私は足を滑らせた事より、村瀬さんの顔があまりにも近い事の方にびっくりして声も出せません。
そして、どうしてここにいるのかもわからない。
声を出せずにいる私を、村瀬さんは心配そうに見ています。
何度も、大丈夫か?って聞くんです。
村瀬さん、そんな顔しないでください……
こんな私でも心配してくれてるって思ってしまうじゃないですか……
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